バンクーバーオリンピックが終わった。まだ終わってないけど。
最初のうちは、高橋大輔くん素敵だなとか、アイスホッケーの試合にエキサイトしたりしていたけれど、だんだん違和感が募り、しまいにニュースも見なくなった。 
いつものことではあるけれど、アスリートの好成績を言祝ぐメディア、アスリートの一挙一動を論うジャーナリスト、アスリート自身の言葉にさえうんざりしてしまい、何れにもシンパシーを感じることができない。 おまえのためのオリンピックじゃないと言われたらそのとおりなので、弊履のごとく無視することにしたのである。(たまにちらちら観ますけど。) 

だって、なんでアスリートがぼくら国民に「不甲斐ない結果で申し訳なかった」なんて言うのさ。 
確かに自身のスポンサーには、「ごめんね結果だせなくって」ぐらいは申し上げればいいかもしれない。(べつに、広告塔が目立たなかったからって広告に責任はないけど、ほんとは。) 
でも、ぼくらは手前勝手に応援してるんだぜ。愛国心を沸騰させて勝手に応援したり蔑んだり、はたまた他人の成績結果に一喜一憂したりするぼくのような阿呆に謝る必要なんてまったくない。自分の生活のため、名声だとか金だとか、そういう根も葉もないことのために持てる力を捧げればいいのではないか。 
そういうごく個人的な進歩史観をぼくら凡人はどきどきしながら眺めればいいのではないか。 
・・・とつくづく思うのだけれど、
「メダルとれなかったけど、あなたたちには関係ないし、ほっといてくれ」なんて言う
高慢なアスリート、ビッグマウスにして圭角のある人間をぼくら日本人は大嫌いなようである。 

国母選手なんてすごく可哀想だ。 
腰パンがだめ、それってスキー連盟会長の「好み」じゃないのか・・・。 
べつにぼくは、国母選手の「自己主張」を擁護しているわけじゃなくて、(彼のエクスキューズ自体には何の深みもないみたいだし。)そうではなくて、個体の差異、異端の出現がゼロになってしまったら、「競技」そのものの概念がなくなってしまうんでないの?と申し上げたいわけです。いろんなやつがいるからオリンピックなんでしょ、と。 

国母選手は残念ながら、ロジカルに反論するだけの言葉を持っていなかったので、渋々謝罪していたけれど(そもそも、言葉なんていらねぇ、俺は俺のやりたいやりかたでやる、というのが彼の真骨頂みたいだし。)誰か代弁してやればよかったんだ。「そういうルールありましたっけ?」って。
たぶんみんなそう思っているはずだけれど、知る限り国母選手擁護派が非常に少ないので、ぼくがこうしてぼそぼそと拙劣な愚痴を書き殴っているのである。 

そもそも、アスリートの要諦は身体能力の多寡だろう・・・。 
って、スキー連盟会長にフツーに反論したら、なんて答えるんだろう。 
武士道精神でも懇々と説くのだろうか。あるいは「高校教師」になるんだろうか。
「そういうルールありますか?」
「そういう問題じゃない、モラルの問題だ。」 

あ、でも今気付いた。ある意味、このスキー部長は正しい。 
昨今、みんなが「自分探し」「世界にひとつだけの花」を、鼻息ふぅふぅさせて躍起に探している時代趨勢のなか、
「個性?非常に不愉快だ!」って(笑 
退嬰的というより、この会長こそ個性的なんじゃないか?実は。

彼の真意はきっとこうだ。
「個性などというものは存在しない。服装とは、何らかのイデオロギー的記号でしかない。それが個性的だというならば、それは他者によって賦与されたものにすぎない。個性は幻想だ。」  
なるほど、部長。個性は幻想なのですね。ばかなかしいけれど、そうかもしれないスね。
やっぱりスキー課長を支持することにします。国母くんは猛省しなさい。 

乱筆御免。テレビがオリンピック一色なのでやきもきして、焼酎飲みすぎただけです。 
でもフィギアスケートは観たいです。

■ 
STUDIO VOICE ONLINEに載せて頂きました。 
http://www.studiovoice.jp/news/tmpl/details.php?id=3396&type=MUSIC 






今作、Nebular for thirteenについて書こうと思います。
あたりまえのことだけれど、音楽についての説明を書くというのは酷く情けないことだ。
言いたいことは全部作品に書き込んであるはずだし、余人にわからないと言われれば、わからないのだということを甘受しなければならない。
ぼくだったら作者の言い訳なんてききたくないし、だいたい聴き手の耳に一度入った音の粒をとりだして、あれこれサジェッションする行為がはたして正しいのか、ぼくにはよくわからない。
聴いた人が、聴いた人の記憶とリンクしてハッピーになるのであれば、それが一番良いに決まっているから。
「こんなこと書いて・・・」と、いささか含羞もあってテキストを書くので、「この音楽はこう解釈して欲しい」などというつもりは当然ないし、「これを読めばアルバムが二倍おもしろくなる!」ようなこともたぶんないと思います。

以下に残す創作意図のようなものは、単なる自身の備忘録であり、次のパラダイムへシフトするための整理整頓のようなものです。だらだらと同じことを書き連ね、身体と脳みそを倦ませることでしか、旧態依然からの脱却は成就しない。現在のぼくの頭に巣食っている確信に満ちた考え方や、心に深く繋縛されたトピックの墓場となればつきづきしいのだけれど。


「リアリティー」と「コラージュ」というのが今回のアルバムのテーマです。
タイトルは、Nebular for thirteen "13歳の星雲"という意味。
Nebular for thirteenにするか、Nebular to thirteenにするか迷ったけれど、
「13歳の子供が目にした満天の夜空」のような印象、含意のある「13歳のための星雲」Nebular for thirteenにしました。

世界をみつめる子供の視線は批評的です。
星が瞬くことも、夜が訪れることも、樹木が動かないことさえ、彼らにとって当然の出来事ではない。
彼らの鋭利な眼差しの先に広がる手付かずの大地では、"星の背後に配線コードがあるかもしれない"(Linus)。
"夕陽が、空を吊るす糸を焼き尽くして"はじめて夜が訪れるのかもしれない(流木のために)。
既知の星座などというものは存在しない。あたりまえの地平から遠く離れ、何もない空におもいおもいの形を描いてゆく行為が、どれほど鋭いリアリティーになるか。
ぼくら大人が持つ主観、あるいは自明である事柄を頭の中から出来る限り取り除いたときに、世界はどのような色形をしているのか。
その風景に目を凝らし、そっと耳を澄ませることでしか想像力の涵養は成し得ないし、そうやってぼくらは少しずつ世界を解体し、音の強度を高めてゆく。

そんなふうに音楽が作れたらいいなと思って曲を作っているけれど、なにせぼくはもう大人で、既知を未知に塗り替えることはできません。だから、すでに知っていることを知らないふりをして作曲しました。知っていることを親密な口調で発音する。知っていることを知らないものに変えるアクロバティックな作業です。たぶんそれが「コラージュ」の基幹だから。(Linus)


ぼくらが作る曲、それはぼくらが倣った楽典ルールであり、ぼくらが盗んだ音階であり、ぼくらが記憶したメロディーの一部であり、さっき広げたページです。頭のなかに染み込んだ「他人」の意匠を切り貼りして、おおきな地図を作っていく行為は、実に風通しが良いし、サンプリング行為それ自体、非常に優雅だと思う。創造は無数の剽窃で成り立っていることに自覚的であること。使い古された方法で新しい地図を開くこと。手垢のついた様々なファクターを拾い集め、現代の音楽を作りたかった。新しくて古くてすでにそこにあるものを見つけたかった。
時間の雨風に耐えうる音楽というのは、きっとそういうものです。
もし、新しい郷愁感というものがあるとしたら、それがぼくらの目指したものだと思っています。


このアルバムの誕生にかかわったすべての方と、アルバム完成を楽しみに待ち続けてくれたみなさんに、
心からお礼申し上げます。みなさんありがとう!!


さて、すべて忘れて次へ行こう。







新譜の製作も終え、PC周りと機材をアップデートして、譜面をかりかりまとめて書く。
手書きで譜面を清書するときが作曲工程のなかで一番充実している時間だ。
音が定まる、音が渡る。
やたらと時間がかかる。
つくるときもそうだけど、二番目の和音に一番時間をかける。
二つ目の音で、風景が決定する。人跡未踏の地。行き先はもう定まった。


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SAIDERA MASTERINGの森崎さんにマスタリングを手掛けて頂いた。
素晴らしい技術である。風通しがいい。マスタリングでこんなに音の透明度が増すのか。
そう申し上げると、「楽曲のなかにそれだけのポテンシャルはあるんですよ。
それを見つけて、どう取り出すかがマスタリングの技術です。」とおっしゃっていた。
漱石、夢十夜。
コーヒー牛乳のなかから、牛乳だけを取り出すことはできない。
けれど、牛乳の味を想像し、遡及的にその配合を論じることはできる。
想像力とは地図を書くことではなく、そのときに適したささやかなシグナルを選び取る能力である。


家に帰って、proofを試聴する。
信じられないことに全曲良いのである。
作ったぼくと、聴いているぼくはもちろん別人であるから、自画自賛ではない。
明日のぼくが同じことを言っているかは断言できないけれど、これはたぶん一聴の価値ありです。


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2/17「Nebular for thirteen」
PROGRESSIVE FOrMより、リリースします。
(来月辺りHPを一新するので、そのときに詳細は書きます。)


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焚き火をする。焚き火は法律で禁止されているそうなのだが、
四の五の言わず、木を燃べろと、時代がわたしたちに要求する。
なので、ジャック・ロンドンに倣い、ぼくらは、ただ、BUILD A FIREするのである。
しかし、焚き火を創造するのは風だし、焚き火のエンドユーザーは空である。
となると、焚き火の前で立ちすくむ俺らはなんなんだ?


ぼくらが消費するのは、ぴかぴかの貨幣でもなく、ぴちぴちの情報でもない。胡散臭いアイデンティティーでもないし、つまらん言葉なんかでもない。「木」だけである。なんてプリミティブで、かつ音楽的なんだ。それに炎があがることについて誰も言い訳が出来ない。なにより温かいのである。


http://www.youtube.com/watch?v=N-TnBoSJgmI








「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。
洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。



日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。



さて、
最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。


「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。


大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)


ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。


・・救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)







こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。


なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。


それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
(モーリス・ブランジョ『終わりなき対話』)


譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)


あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。



昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。

国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。







なんか気持ち悪くないですか?選挙。
ぼくは、メディアにも、為政者にも、手のひらを返したようにさらっと政権をひっくり返しちゃう国民にも怒りを禁じ得ない。まぁ、しっかりぼくも国民だけどさ。


TBSの投票結果ライブ中継の画面の上のほうに、
『選挙への感想』みたいなメールを紹介していたけれど、
『自公は猛省を!』とか、『この結果が国民の麻生さんへの意見だと思います。』とか
『圧勝に驚いています。民主党を応援しています。』など、
おまえらついこのあいだまで、小泉政権支持してたじゃん。どういうことよ、この君子豹変的な身振りは。


季節風のように、あっさり風向きの変わる民意の構造を誰か説明してくれ。
自民党と民主党の政策的オプションの違いやら、マニフェストやらの違いなんて
五十歩百歩だろう。どっちにしろドラスティックな変化なんてないんだから。

中川昭一の「飲酒問題」とか、麻生太郎の「失言」だけが、失態の理由なんスか?
それともちんけなマニフェストが気になるのか?
やっぱりどうでもいいんだろう、ボスが誰かなんて。


たとえば、どちらかの政党が政権を握っているせいで、酷く虐げられていると思っている人、
家族が貧窮状態だったり、傘が盗まれたり、女の子にフラれたり、鼻炎が治らない、などの遠因が、現在の為政者にあると思っている人、


それは、あなた自身に問題があるのよ。


リストラの対象になったのも、あなたの能力に問題があったのだし、
SUICAのチャージの減りが速いのも、あなたの行動範囲が広すぎるせいだし、
「歩合」を「フゴウ」と平然と読んで失笑されたのも、あなたの知性の不調が原因だ。


人は、「自分の不幸は、当の彼が招いたものであって、その原因さえ取り除けば、自分の幸福は担保される」と妄信している。
(ぼくもケッコウ思っている。)


この選挙結果は、与党に落ち度があったからではなく、
この黒く渦巻くような国民の「他責感」がもたらしたように思えて仕方がない。
暴論か?あながちそうではない気がするけど。








まず、
9/11 LIQUID ROOMにて
オールナイトのイベントに参加致します。
みんなで遊びに来てください。サタデーナイトだし。
0:00からです。
http://www.realtokyo.co.jp/events/view/28840


8/15のイベントだとか、9/11のライブだとか、何やら政治的主張をしてるミュージシャンみたいだけど、とくに何の意味もありません。まぐれです。

ぼくは政治的には極めてニュートラル、また怠惰な人間であろうと思っているので、
来る選挙だって行かないし、靖国神社参拝についても定見は持っていないし、
もちろん支持政党だってなくて、支持猫種さえない。いやそれはある。
どれだけ選挙カーが耳障りで鬱陶しくても、拡声器をひったくって、宣伝車のタイヤをパンクさせ
候補者を蹴り殺すようなことはしない。たぶん。


明確な立場というものが、きっぱり何かに与することが、人を傷つけて憎むことと、密接に、ほとんど双生児のようにリンクすることなのだと、長い歴史とささやかな経験に教えられた。あと猫に。

まぁそういうわけで、9/11だからって、イベント会場で
星条旗を掲揚したり、あるいは燃やしたりなんてしません。
たぶん。



「悲しき熱帯」を読み始める。
ほとんど苦役に近い、この読書。
人間の身体は、「自分の知らない」ことに、異常なまでの拒否反応を示す。
「知らないことは知らないままでいいだろ?べつに、死ぬわけじゃないし。」
と、身体のヤツは、細胞を総動員させて、脳みそに苦情を申し立てる。
人間の身体は、何をもってしても、「新しい価値観」を受け付けることはないのだ。
観念的には。たぶん。


それでは、旧態依然のアタマを次のステップに移行させるにはどうしたらいいか。
これはもう、身体がその"現在の考え方"に「飽きる」(fed up!)のを待つしかない。
「もうこのフレームワークでは、フレッシュな創造も、他者との共感もありえない」と感じたとき
はじめて人は、古びた視線や、色褪せた世界に気付いて、未開の世界を探し始めるのである。
(猿だね。)


無知からの脱却は、知識の入れ替えがそれを成就させるのではない。
飽きの飽くなき反復だけが、人を成長させ、身体の強度を高めてゆく。


「形稽古」とか、「計算ドリル」とか、「ツェルニー」が重要なのは
それが一番手っ取り早く、身体を倦ませ、次の段階に脳みそを促すからだ。


ゆるやかな知性の涵養などというものは、たぶん存在しない。
健全な身体は「無理矢理」「突然」ソレに「飽き」て、次の世界に適応してゆく。


まぁ、これは10年ぐらい飽きもせず、同じ本読んでは、感心してニヤけている自分への苦言なんだが。

・・・


閑話休題

「悲しき熱帯」を読んでいたんだ。

気付くと行間の渓谷を視線だけすべりすべって、
内容がぜんぜんアタマに入っていない。


だんだん腹が立ってきたので、猫に「読みますか・・・?」と、おそるおそる尋ねると
「いや、おれイワシ缶食っとく。」と、足早に立ち去った。
おまえには知識欲、いや、
世界の成り立ちや、自分が何者であるかを探求する意思はないのか。
ないんだろうな。いいよなくて。
ヘーゲルは動物が一人称を持たないことを看破したけれど、
こいつはほんとに向上心ゼロだな。
たまにそよ風の研究を熱心にしているけれど。
どーせフリだろう。



そういえば、
英語には「飽きる」に相当する語彙がないと思っていたけれど
"fed up"というらしい。(友人曰く)
辞書をひくと
〔興味を失う〕get [grow, become] tired [weary]((of)),lose interest ((in)); 〔十分過ぎて嫌になる〕have had (more than) enough ((of)),((文)) be satiated ((with)); 〔うんざりする〕((口)) be fed up ((with)),((口)) be sick ((of))


世界各国の言語すべてに合致する観念なんてものは、存在しないというのがよくわかる。
辞書をぺらぺらめくってるだけでは、他言語を持つ人々の価値体系などワカラナイということですね。とすると、"飽きる"という身体的な動詞を持たない人種も、もしかしたら存在するのだろうか。飽きない動物には、進化もない気がするけど。まぁいいか。



サッカー選手は本当に、機知と示唆に富んだ素晴らしい名言を残しています。


「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
ヨハン・クライフ

「ボール以外のモノを蹴ってはいけない」
大久保嘉人

「キャラメルコーンは大袋だけじゃなく、小袋にもピーナツを入れるべき」
中田英寿







出演者の方々、無償で音響を引き受けてくださったPAの方、
お盆真っ盛りにも関わらず、足を運んでくれたお客さん
どうもありがとうございました。


Muffinさん、大所帯の編成で、気持ちの良い音楽をありがとう。
ぼくは、カテゴライズするのは失礼かもしれないけれど、
ああいうアコ・トロニカ?が好きです。


盆ノ窪さん
張り詰めたスリーピースの、ぴりぴりした音像が、イベントに
アクセントをつけてくれました。
どうもありがとう。
でも、インプロだけどポップだったよ。格好よかった!


天国さん
いやー、さすがだった。
こんなにも、音楽を音楽たらしめるユニットは比類をみないよ。
抒情的でいて、排他的。
ポップだけど、厭世的。
パワフル、素晴らしい。


太田裕美さん
準備がお粗末で、非常に申し訳なかったけれど、
素敵な作品を提供してくださって、嬉しかったです。
曖昧なまま収拾される物語。好きですね。ああいうの。
次回作もとっても楽しみです。

今回の出演者さんのインフォメーションは下記から。
是非チェックしてみてください。
そしてライブ観に行ってください。


Muffin
http://sound.jp/muffin/
盆ノ窪
http://bonnokubo.hp.infoseek.co.jp
天国
http://tengoku.in/
太田裕美
http://web.me.com/ironica7



次回のライブは、8月24日(月)
下北沢440








第13回Van Cliburn国際ピアノコンクールで、
全盲のピアニスト、辻井伸行さんが優勝した。

記者会見で、インタビュアーが、
「もし眼が見えるようになったら何が見たいですか」
と辻井さんに質問をしていた。
なんて愚かなんだろうこのインタビュアーは。
あまりにグロテスクな風景だったので、テレビを粉々に破壊する。


豚インフルエンザに感染しました、
と触れ回ってるのに、世間はこの話題、もう飽きたみたいだ。
結局、この手のトピックの帰趨は、「みんなが、ゆるやかに飽きていって、いつのまにか、ぷっつり消えた(まだ存在するのに)」である。
小学生が「ブタフル」と略していた。
この言語感覚すごいよね。なんだよブタフルって。
でも、しょせんブタフルだったな。


島田伸介が「AVというものが子供達の想像力を奪った」と言っていた。
うむ、そうかもしれない。


最近、結婚式の司会者がおもしろい。
「今日の新郎新婦は美男美女で、充分アップにも耐えうるお顔をしていらっしゃるので、みなさん、どうぞ近くに寄ってお写真をお撮りください!」
おもしろい。


スーパーのレジに並んでいると、ぼくの前に立ちはだかっていたおばさんが、「あなたふたつだけなの?じゃあ先に済ませなさい」と
順番を譲ってくれた。
イタリアのスーパーでは真逆だった。
「ちょっと、あたし二つだけなんだから、先いいでしょ?どいて!」


・1Q84読了
・太陽@イッセー尾形
・スヤマカフェ 090627
スヤマカフェ








通学路を家まで疾走する小学生をよく見るんだけど、
なんで小学校の頃って、帰り道にトイレ行きたくなるんだろう?
そして、かなり極限状態だった。いつも。


晴れの日と雨の日が交互に続く。シーケンシャルに、加速しながら。
年取るとともに、良い天気の日が貴重に思えてくる。

距離とか、遺品とか、そういう言葉が好きだ。


たぶん、彼らは自分が生きていると思い込んでいるのだ。


村田志穂子さんのオイリュトミーの発表会を観にいったり、オワリカラのイベントに行ったりする。
オワリカラ、非常に良かった。かっこういい。
あ、今思い出した、ロスコいってねぇ。

備忘録:
現代美術館「池田亮司 +/- infinite between 0 and 1」
近代美術館「ヴィデオを待ちながら」
町田国際「ルオー回顧展」
など


スヤマカフェ vol.1

うつみかやさんが、ハッピーで、素敵な歌を披露。
Jessicaはミュージカルのカバーからセレクトして雄大に歌いあげ、
山岸直人さんの鋭利でカラフルな即興演奏が四方山話をすりぬける。
ゲスト、礼恩が美声を披露しつつ、あれよと深更に至る。
夜中に隣人のみはる氏がグリーンカレーを振舞う。ひどく美味い。
おかげで、ぼくが作った豚汁が影を潜める。
次回は、6月27日です。