お久し振りです。 

書きたいことはたくさんあったはずなのだけれど、 
ツイッターでじゃぶじゃぶとドクサを流し続けているので 
手元にはわずかな記憶と、いくつかの泣き言しか残っていません。 

■ 
8/11 Releaseの、 
PROGRESSIVE FOrM 3rd Compilation Album various artists / Forma. 3.10 
に参加、一曲書き下ろしました。 
Viola奏者の、酒井静香さんに手伝ってもらって、 
violaのみ、6声の曲です。 
パーカッションは、おなじみの山岸直人氏。 
アレンジはぼく。 
なかなか素敵なので、手に入れてください。 

なんと、18曲入りで、今をときめく稀代のエレクトロニックアーティストたちが渾身の楽曲を提供しています。 

PROGRESSIVE FOrM 
3rd Compilation Album 
8月11日発売 
various artists / Forma. 3.10 
税抜価格¥2,200 / 定価¥2,310 
PFCD21 / 1CD / 4582237819892 


■ 
映像作家の橋本新さんの「DICAPRIO」に音をつけました。 
先述の酒井さんのViolaのハーモニーが、橋本さんの凛とした美しいドローイングに合っていたので 
そのまま流し込みました。rearrange pidgin op.1 
ここでもパーカッショニスト山岸が活躍。 
1時間くらいで作った食卓場面のワルツがわりと気に入っている。 

ともかく、Violaの優しい手触りと、ドローイングの哀感がとても良いです。 



■ 
5/5,5/6のNgatariのLIVE映像が出来ました。 
映像撮影編集してくださったのは、あのSANRI-GUNさん。 

 

■ 
ピアニスト・本間太郎氏発案の「カニのカタログ」が始動します。 
(たぶんメシアンへのオマージュのはずだけれど、あるいは殻をかぶった鍵盤楽器に先駆的風穴を開ける気かもしれない。) 
本間氏からの招待状は以下。 
興味あるひとは教えてください。「カニのことならおれに聞いて」とか、「よかったらカニ図鑑貸すよ」などでもいいです。 
コンピレーションアルバム「カニのカタログ」の制作が決定しました。1アーティストにつき一つ甲殻類の中から任意のカニを選びその着想で作曲するという懐古的コンセプトの下で進めていきます。作曲すること自体は任意ではなく強制なので、これを見た方は速やかに作業に取りかかってください。 
* 


■ 
8/22は、New sounds of tokyo vol.6に参加します。 
詳細はまたおって告知をするけれど、こんな具合です。 
素晴らしいイベントです。

PROGRESSIVE FOrM presents New Sounds of Tokyo Vol.6 

時間 
Open / Start 16:30 

料金 
前売券 ¥2,500 当日券 ¥3,000 メール予約・w/flyer ¥2,700 (共に1ドリンク別) 

出演 
Evade (from Macau.CH) 
kadan / haruka nakamura, 
Luis Nanook (Chihei Hatakeyama & Tsutomu Satachi) 
miyauchi yûri, 
Ngatari 
Ametsub -dj set- 

チケットの取り扱い:ローソンチケット(Lコード76602) 
店頭販売 EATS and MEETS Cay SPIRAL RECORDS 
メール予約のお申し込み:PROGRESSIVE FOrM idp@kt.rim.or.jp 
お名前(フルネーム)、ご連絡先、ご希望枚数をお知らせください。 








最近、様々なものに飽きている。
愛聴していたいくつかの音楽に飽きた。好きな作家の文章を読んでいても、なんだか文体自体にうんざりしてしまう。
底無しに愛していたクリーム鯛焼きも買わなくなった。ついでにiphoneのフォルムにも飽きた。

人間は飽きる生き物だ。
恐ろしく飽きる。際限なく飽きる。
衣食住はもちろん、音楽にも飽きるし、文章や思想に飽きて、パートナーにだって飽きる。
いつ、どれほどの時間をもって、どんなときに飽きるのかわからないけれど、どんなに偏愛しているものでも、人は同じものを愛し続けることはできない。
そもそも、飽きるという動詞は、「飽きた」という過去完了の形でしか顕在化しないので、その「瞬間」が訪れるまで、わたしたちはそのリミットが刻々と近づいていることに気がつかない。
だから男女の別れは突然訪れるし、革命はいつもドラスティックなものだし、本屋は減っても古本屋はあまりなくならない。

「いやそんなことはない、オレは妻を数十年愛し続けているし、飽きたことなんて一度もない。」という人がいるかもしれない。
あるいは「50年間聴き続けている音楽がある」という人もいるかもしれない。
でももちろんそれは彼がそれらに「飽きなかった」わけではない。

彼自身がその数十年の間に変化したのである
生涯唯一無二の伴侶とは、ずっと同じ気持ちのまま何も変化することなく相互に恋をしている二人のことではない。
(そんなものは気持ちが悪すぎる。)
二人が絶えず変化し続け、その変化の「曲線」を深く愛し合うという形で、生涯のパートナーは成就されるのである。
(たぶん。うん、たぶん。)

あるいは彼は生涯同じメロディーを愛し続けているかもしれない。
けれど、聴く彼自身が変化しているのだから、彼の記憶における音の染み込み方もずいぶん変化するはずだし、
音の文脈だってもちろん変わってくるはずだ。
人は「過去にそのメロディーを愛した自分」を俯瞰するという形で、記憶を愛し続けているだけである。
って、ペシミスティックに過ぎるかしら。

ともかく、人は飽きないことには、次のパラダイムにシフト出来ないからね。
そのことはずいぶん前に色々書いた。
こうやって同じことを書きまくって、自分にうんざりするのは、わりといいことだと思う。

餃子をせっせと作る。
塩が見当たらない。胡椒粒の隙間に身を隠したとしか思えない。
探し物が何故見つからないかというと、ぼくたちは、その探し物が、どのような色形で、どのように隠れているかを
事前に想像してしまっているからだ。間違いない。

Twitterにハマってます。
Twitterって、言葉が湯水のごとく消費されるので、"秘匿なパブリック"という感じがするけど、
「その言葉を誰が発信したのかは、この際あまり重要ではない」という印象があって、ぼくは結構好きだ。
良くも悪くも今的だ。

最近、映画をよく見る。
ぼくは映画嫌いを公言しているので、夜中にこそこそTSUTAYAに行った。
本当はクレヨンしんちゃんの映画と、小曽根真のショパンを探しに行ったのだけれど、どちらもなかったので
「人生に乾杯」(原題はKonyecというハンガリーの映画)やスペル(B級ホラー)など、いくつかの映画を借りた。
Konyecは牧歌的な話だったのでほんわか和みました。
ところで「アニソン」がアニメソングのことだって今日知りました。
フザケたアジア人アイドルの固有名かなにかだと思っていた。いや、ほんとに。

1Q84 book3 読了
まだ読んでない方も多いと思うので、あれやこれや書きませんが
この本はユング自伝から想起され、書かれた物語だと思いました。
何故そう思ったのかはまた次回。

そういえば、村上春樹の本ではじめて「作者」が登場した。ナレーションのような俯瞰的な文章が一部あって、びっくりした。

いよいよ、5/16はLinus vol.6です。
今回は暴力的なまでに素晴らしい出演者群だと思っているので、是非遊びにいらしてください。
楽しいよきっと!




MADO
2010.5.5 / MADO LOUNGE SPICE







new sounds of tokyo vol.4 終わりました。
素晴らしい音を用意してくださった音響の方、気持ちの良いスタッフの方々、
素晴らしい出演者の皆様、ながい時間お付き合いしてくれた1000人を越えるお客さんたち・・・
本当にありがとうございました!


ngatari


楽しかった。楽しんで頂けたでしょうか。
ガタリのはじめの音が鳴った時、客席はとても静かだった。
お客さんの承認なしには、あの深遠な空間は生まれなかったに違いない。
音楽を作るというのは、シンパシーを感じることとほとんど同義なのだと、改めて思う。
音楽とは、「他者に受け入れられるための機会を求めること」それのみなのだと。
何を求められているか分らないときにこそ、人はなんとか他者の同意を得ようとする。
コミュニケーションの原型を基礎付けるのは、そのような聴き手、話し手のインターフェースだ。

考えてみれば、生きること自体、そのような「関係」の連続であるけれど。
ありがとう。また会いましょう!!


ngatari


ngatari


ngatari








六本木アートナイトのイベントを終え、32回ぐらい電車乗り間違えて帰宅。
なんだか久し振りです。オールナイト。
非常に楽しかったです。
のべ300人近くの動員だったそうです。すごい。



夜中、美術館に入館できるのはとても素敵だったし、(展示はあまりおもしろくなかった。)
瀟洒で、またハイブリットな街の夜はなかなか楽しかった。
アートナイトのキャッチコピーは古橋悌二。ダムタイプの映像作品だけ人多すぎて観れず。
いらしてくださったみなさん、スタッフの方々、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。




上映には間に合わなかったけれど、映像作家の橋本さんにDVDを頂く。
これ、すごく良い。
知っていることを知らないまま収拾する、既知を未知に書き換えた物語だと思った。 楽しい。
さらに、25絃箏奏者かりんさんのライヴにも間に合わず、双子のピアニストのガーシュインを聴く。



ぼくは細いものが好きみたいだ。
むかしからジャコメッティは好きだったし、タイポグラフィもlightなものが好きだ。
Linotypeのユニバースとか、avenirとかほんと綺麗だと思う。
http://www.linotype.co.jp/fonts%20by%20inspiration/sans%20serif.html


むかし、京都の恵文社で針金で出来たしおりを見つけて買ったんだけど、なくしてしまった。
ああ、この作家、ジャコメッティみたいだなと思った。
関昌生さんという人のプロダクト。



でも、女の子はわりと肉付きが良いほうがいいんじゃないかと思う。
たぶん、線は女性性に背馳するのだろう。



ある劇団に客演としてJessicaが参加し、声を聴いた演出家の人が
「彼女の声を聴くと、映像がぽんと出現する、時計とか、ドアとか。」と言った。
そうなんだよ、すごく物質的なの。なんというか、声と、空気が倍音によって限定した形になる。彼女の声は。
そう、ぽんっという感じで。


これは努力でどうこうなるものじゃないし、ヴォイス・トレーニングによって涵養される歌唱力とも無関係の資質なのではないか。
(もちろん訓練による裏づけによって顕在化するものだとおもうけど。)
完全に生得的なもの、生まれつきの能力だと思う。
そういえば、玉井夕海さんも「声を聴いた瞬間、空気を一篇の映画にしてしまう」と評していた。
しかし、時計とかドアとか言い得て妙、完全に「不思議の国のアリス」である。


その演出家は、続けてこうも言っていた。
「Jessicaの声は、個だと思う。個、一、単一、空があったらその下で対になるもの、ひとつの凛としたモノ、そんな気がする。」
法外な賛嘆の言葉であるけれど、わりとその通りだと思う。


---
その劇団の公演は、以下です。そのJessicaはシューマンのLiederkreis intermezzo歌います。
たぶん彼女の歌曲を聴けるのは最初で最後です。
ぼくも一曲書き下ろしました。

3/29,30
開座アトリエ公演
18:00~
Ticket 2,500yen


そして、ついに4月はリリースパーティー第一弾です。
詳細はこちら。







朝っぱらからテレビを見る。
最近、「盛り写メ」なるものが流行っているらしい。
何、盛り写メって。

「ギャル語で過剰に化粧をすること。ギャルに独特の化粧法が「顔に塗る」というより「顔に盛る」ようなイメージがあることから言われるもの。「アクセサリーを過剰に身につける」場合にも言われる。また最近では、さらに一般的に「過剰に演出する」ことについて「盛る」と表現する例が増えている。モリオ、盛り写、盛りプリなどのような複合語を作る場合もある。―新語辞典より」


「盛り写メ」
凄まじい言語感覚である。
「盛り」に含意される本来(本来というか、むかしの)の意味は、「勢いづいている」「絶好調」などのニュアンスだ。女子高生は、そのような古臭い語感にうんざりして、同じ概念を違った言葉で表現するようになった。(たぶん)
「盛り写メ」の「盛り」は「過剰に演出すること」を意味するらしい。
ぼくも「話を盛った」くらいの表現はするけれど、「演出する」という意味か。なるほどね。
でも、ぼくが今判読した「盛り」のニュアンスと女子高生の使う「盛り」とでは、だいぶ隔たりがあるんだろうな。
さすがに女子高生の友達も、もう久しくいないから(さみしい・・・)生きた使い方に触れる機会もないけれど。

ぼくが高校生のころにも新語をどこからともなく運んでくる、コウノトリみたいなやつがいて
彼の発語する新語はまたたく間に学校中に浸透した。
ぼくはそのころ、「ウチの高校ってすげーぜ!最新流行の言葉をキャッチアップしてんぜ!」と息巻いてそれらの新語を使いまくっていた。

たとえば、

「イカチー」

もちろん、「いかつい」である。元々の意味は「ごつい」「威圧的な」辺りだろう。
その「イカチー」を、ぼくらは「怖い、強い」という意味で使いはじめ、転じて、「ヤバイ」というニュアンスにまで昇華させた。
用例を示す。

「あいつらイカチくね?」
「今日数学の小テストあるじゃん、マジイカチーんだけど」

・・・なんて乏しい表現なんだ。バカかオレら。
バカだけど、カワイイ。そして幾星霜「イカチー」は消えた。
「盛り」もこのまま繁昌し続けるとは思えないから、使い捨てなんでしょうね。
別に、使い捨ての言葉が悪いわけじゃなくて、語彙の増やし方に問題があるだけだ。
(だって、言葉って流動的なものだし、時代ごとのイデオロギーと、年代別バックグラウンドにまるごと内包されているもんだから。)
複数の概念や、グラデーションを描く色とりどりの感情を単一の語彙に委ねてしまう人間は、バカのままだけれど、(たとえば、「うぜぇ」とか「さみぃ」とか)言葉をころころとダイナミックに開発して、語彙を獲得していく女子高生に、ぼくは深い敬意を抱くのである。

これを読んだ女子高生諸氏(いないだろうけど・・)、ぜひ「ことばのつかいかた」レクチャーしてください。






バンクーバーオリンピックが終わった。まだ終わってないけど。
最初のうちは、高橋大輔くん素敵だなとか、アイスホッケーの試合にエキサイトしたりしていたけれど、だんだん違和感が募り、しまいにニュースも見なくなった。 
いつものことではあるけれど、アスリートの好成績を言祝ぐメディア、アスリートの一挙一動を論うジャーナリスト、アスリート自身の言葉にさえうんざりしてしまい、何れにもシンパシーを感じることができない。 おまえのためのオリンピックじゃないと言われたらそのとおりなので、弊履のごとく無視することにしたのである。(たまにちらちら観ますけど。) 

だって、なんでアスリートがぼくら国民に「不甲斐ない結果で申し訳なかった」なんて言うのさ。 
確かに自身のスポンサーには、「ごめんね結果だせなくって」ぐらいは申し上げればいいかもしれない。(べつに、広告塔が目立たなかったからって広告に責任はないけど、ほんとは。) 
でも、ぼくらは手前勝手に応援してるんだぜ。愛国心を沸騰させて勝手に応援したり蔑んだり、はたまた他人の成績結果に一喜一憂したりするぼくのような阿呆に謝る必要なんてまったくない。自分の生活のため、名声だとか金だとか、そういう根も葉もないことのために持てる力を捧げればいいのではないか。 
そういうごく個人的な進歩史観をぼくら凡人はどきどきしながら眺めればいいのではないか。 
・・・とつくづく思うのだけれど、
「メダルとれなかったけど、あなたたちには関係ないし、ほっといてくれ」なんて言う
高慢なアスリート、ビッグマウスにして圭角のある人間をぼくら日本人は大嫌いなようである。 

国母選手なんてすごく可哀想だ。 
腰パンがだめ、それってスキー連盟会長の「好み」じゃないのか・・・。 
べつにぼくは、国母選手の「自己主張」を擁護しているわけじゃなくて、(彼のエクスキューズ自体には何の深みもないみたいだし。)そうではなくて、個体の差異、異端の出現がゼロになってしまったら、「競技」そのものの概念がなくなってしまうんでないの?と申し上げたいわけです。いろんなやつがいるからオリンピックなんでしょ、と。 

国母選手は残念ながら、ロジカルに反論するだけの言葉を持っていなかったので、渋々謝罪していたけれど(そもそも、言葉なんていらねぇ、俺は俺のやりたいやりかたでやる、というのが彼の真骨頂みたいだし。)誰か代弁してやればよかったんだ。「そういうルールありましたっけ?」って。
たぶんみんなそう思っているはずだけれど、知る限り国母選手擁護派が非常に少ないので、ぼくがこうしてぼそぼそと拙劣な愚痴を書き殴っているのである。 

そもそも、アスリートの要諦は身体能力の多寡だろう・・・。 
って、スキー連盟会長にフツーに反論したら、なんて答えるんだろう。 
武士道精神でも懇々と説くのだろうか。あるいは「高校教師」になるんだろうか。
「そういうルールありますか?」
「そういう問題じゃない、モラルの問題だ。」 

あ、でも今気付いた。ある意味、このスキー部長は正しい。 
昨今、みんなが「自分探し」「世界にひとつだけの花」を、鼻息ふぅふぅさせて躍起に探している時代趨勢のなか、
「個性?非常に不愉快だ!」って(笑 
退嬰的というより、この会長こそ個性的なんじゃないか?実は。

彼の真意はきっとこうだ。
「個性などというものは存在しない。服装とは、何らかのイデオロギー的記号でしかない。それが個性的だというならば、それは他者によって賦与されたものにすぎない。個性は幻想だ。」  
なるほど、部長。個性は幻想なのですね。ばかなかしいけれど、そうかもしれないスね。
やっぱりスキー課長を支持することにします。国母くんは猛省しなさい。 

乱筆御免。テレビがオリンピック一色なのでやきもきして、焼酎飲みすぎただけです。 
でもフィギアスケートは観たいです。

■ 
STUDIO VOICE ONLINEに載せて頂きました。 
http://www.studiovoice.jp/news/tmpl/details.php?id=3396&type=MUSIC 






今作、Nebular for thirteenについて書こうと思います。
あたりまえのことだけれど、音楽についての説明を書くというのは酷く情けないことだ。
言いたいことは全部作品に書き込んであるはずだし、余人にわからないと言われれば、わからないのだということを甘受しなければならない。
ぼくだったら作者の言い訳なんてききたくないし、だいたい聴き手の耳に一度入った音の粒をとりだして、あれこれサジェッションする行為がはたして正しいのか、ぼくにはよくわからない。
聴いた人が、聴いた人の記憶とリンクしてハッピーになるのであれば、それが一番良いに決まっているから。
「こんなこと書いて・・・」と、いささか含羞もあってテキストを書くので、「この音楽はこう解釈して欲しい」などというつもりは当然ないし、「これを読めばアルバムが二倍おもしろくなる!」ようなこともたぶんないと思います。

以下に残す創作意図のようなものは、単なる自身の備忘録であり、次のパラダイムへシフトするための整理整頓のようなものです。だらだらと同じことを書き連ね、身体と脳みそを倦ませることでしか、旧態依然からの脱却は成就しない。現在のぼくの頭に巣食っている確信に満ちた考え方や、心に深く繋縛されたトピックの墓場となればつきづきしいのだけれど。


「リアリティー」と「コラージュ」というのが今回のアルバムのテーマです。
タイトルは、Nebular for thirteen "13歳の星雲"という意味。
Nebular for thirteenにするか、Nebular to thirteenにするか迷ったけれど、
「13歳の子供が目にした満天の夜空」のような印象、含意のある「13歳のための星雲」Nebular for thirteenにしました。

世界をみつめる子供の視線は批評的です。
星が瞬くことも、夜が訪れることも、樹木が動かないことさえ、彼らにとって当然の出来事ではない。
彼らの鋭利な眼差しの先に広がる手付かずの大地では、"星の背後に配線コードがあるかもしれない"(Linus)。
"夕陽が、空を吊るす糸を焼き尽くして"はじめて夜が訪れるのかもしれない(流木のために)。
既知の星座などというものは存在しない。あたりまえの地平から遠く離れ、何もない空におもいおもいの形を描いてゆく行為が、どれほど鋭いリアリティーになるか。
ぼくら大人が持つ主観、あるいは自明である事柄を頭の中から出来る限り取り除いたときに、世界はどのような色形をしているのか。
その風景に目を凝らし、そっと耳を澄ませることでしか想像力の涵養は成し得ないし、そうやってぼくらは少しずつ世界を解体し、音の強度を高めてゆく。

そんなふうに音楽が作れたらいいなと思って曲を作っているけれど、なにせぼくはもう大人で、既知を未知に塗り替えることはできません。だから、すでに知っていることを知らないふりをして作曲しました。知っていることを親密な口調で発音する。知っていることを知らないものに変えるアクロバティックな作業です。たぶんそれが「コラージュ」の基幹だから。(Linus)


ぼくらが作る曲、それはぼくらが倣った楽典ルールであり、ぼくらが盗んだ音階であり、ぼくらが記憶したメロディーの一部であり、さっき広げたページです。頭のなかに染み込んだ「他人」の意匠を切り貼りして、おおきな地図を作っていく行為は、実に風通しが良いし、サンプリング行為それ自体、非常に優雅だと思う。創造は無数の剽窃で成り立っていることに自覚的であること。使い古された方法で新しい地図を開くこと。手垢のついた様々なファクターを拾い集め、現代の音楽を作りたかった。新しくて古くてすでにそこにあるものを見つけたかった。
時間の雨風に耐えうる音楽というのは、きっとそういうものです。
もし、新しい郷愁感というものがあるとしたら、それがぼくらの目指したものだと思っています。


このアルバムの誕生にかかわったすべての方と、アルバム完成を楽しみに待ち続けてくれたみなさんに、
心からお礼申し上げます。みなさんありがとう!!


さて、すべて忘れて次へ行こう。







新譜の製作も終え、PC周りと機材をアップデートして、譜面をかりかりまとめて書く。
手書きで譜面を清書するときが作曲工程のなかで一番充実している時間だ。
音が定まる、音が渡る。
やたらと時間がかかる。
つくるときもそうだけど、二番目の和音に一番時間をかける。
二つ目の音で、風景が決定する。人跡未踏の地。行き先はもう定まった。


---
SAIDERA MASTERINGの森崎さんにマスタリングを手掛けて頂いた。
素晴らしい技術である。風通しがいい。マスタリングでこんなに音の透明度が増すのか。
そう申し上げると、「楽曲のなかにそれだけのポテンシャルはあるんですよ。
それを見つけて、どう取り出すかがマスタリングの技術です。」とおっしゃっていた。
漱石、夢十夜。
コーヒー牛乳のなかから、牛乳だけを取り出すことはできない。
けれど、牛乳の味を想像し、遡及的にその配合を論じることはできる。
想像力とは地図を書くことではなく、そのときに適したささやかなシグナルを選び取る能力である。


家に帰って、proofを試聴する。
信じられないことに全曲良いのである。
作ったぼくと、聴いているぼくはもちろん別人であるから、自画自賛ではない。
明日のぼくが同じことを言っているかは断言できないけれど、これはたぶん一聴の価値ありです。


---
2/17「Nebular for thirteen」
PROGRESSIVE FOrMより、リリースします。
(来月辺りHPを一新するので、そのときに詳細は書きます。)


---
焚き火をする。焚き火は法律で禁止されているそうなのだが、
四の五の言わず、木を燃べろと、時代がわたしたちに要求する。
なので、ジャック・ロンドンに倣い、ぼくらは、ただ、BUILD A FIREするのである。
しかし、焚き火を創造するのは風だし、焚き火のエンドユーザーは空である。
となると、焚き火の前で立ちすくむ俺らはなんなんだ?


ぼくらが消費するのは、ぴかぴかの貨幣でもなく、ぴちぴちの情報でもない。胡散臭いアイデンティティーでもないし、つまらん言葉なんかでもない。「木」だけである。なんてプリミティブで、かつ音楽的なんだ。それに炎があがることについて誰も言い訳が出来ない。なにより温かいのである。


http://www.youtube.com/watch?v=N-TnBoSJgmI








「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。
洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。



日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。



最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。


「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。


大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)


ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。


救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)







こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。


なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。


それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
(モーリス・ブランジョ『終わりなき対話』)


譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)


あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。



昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。

国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。