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new sounds of tokyo vol.4 終わりました。
素晴らしい音を用意してくださった音響の方、気持ちの良いスタッフの方々、
素晴らしい出演者の皆様、ながい時間お付き合いしてくれた1000人を越えるお客さんたち・・・
本当にありがとうございました!

楽しかった。楽しんで頂けたでしょうか。
ガタリのはじめの音が鳴った時、客席はとても静かだった。
お客さんの承認なしには、あの深遠な空間は生まれなかったに違いない。
音楽を作るというのは、シンパシーを感じることとほとんど同義なのだと、改めて思う。
音楽とは、「他者に受け入れられるための機会を求めること」それのみなのだと。
何を求められているか分らないときにこそ、人はなんとか他者の同意を得ようとする。
コミュニケーションの原型を基礎付けるのは、そのような聴き手、話し手のインターフェースだ。
考えてみれば、生きること自体、そのような「関係」の連続であるけれど。
ありがとう。また会いましょう!!



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六本木アートナイトのイベントを終え、32回ぐらい電車乗り間違えて帰宅。
なんだか久し振りです。オールナイト。
非常に楽しかったです。
のべ300人近くの動員だったそうです。すごい。

夜中、美術館に入館できるのはとても素敵だったし、(展示はあまりおもしろくなかった。)
瀟洒で、またハイブリットな街の夜はなかなか楽しかった。
アートナイトのキャッチコピーは古橋悌二。ダムタイプの映像作品だけ人多すぎて観れず。
いらしてくださったみなさん、スタッフの方々、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

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上映には間に合わなかったけれど、映像作家の橋本さんにDVDを頂く。
これ、すごく良い。
知っていることを知らないまま収拾する、既知を未知に書き換えた物語だと思った。 楽しい。
さらに、25絃箏奏者かりんさんのライヴにも間に合わず、双子のピアニストのガーシュインを聴く。
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ぼくは細いものが好きみたいだ。
むかしからジャコメッティは好きだったし、タイポグラフィもlightなものが好きだ。
Linotypeのユニバースとか、avenirとかほんと綺麗だと思う。
http://www.linotype.co.jp/fonts%20by%20inspiration/sans%20serif.html
むかし、京都の恵文社で針金で出来たしおりを見つけて買ったんだけど、なくしてしまった。
ああ、この作家、ジャコメッティみたいだなと思った。
関昌生さんという人のプロダクト。

でも、女の子はわりと肉付きが良いほうがいいんじゃないかと思う。
たぶん、線は女性性に背馳するのだろう。
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ある劇団に客演としてJessicaが参加し、声を聴いた演出家の人が
「彼女の声を聴くと、映像がぽんと出現する、時計とか、ドアとか。」と言った。
そうなんだよ、すごく物質的なの。なんというか、声と、空気が倍音によって限定した形になる。彼女の声は。
そう、ぽんっという感じで。
これは努力でどうこうなるものじゃないし、ヴォイス・トレーニングによって涵養される歌唱力とも無関係の資質なのではないか。
(もちろん訓練による裏づけによって顕在化するものだとおもうけど。)
完全に生得的なもの、生まれつきの能力だと思う。
そういえば、玉井夕海さんも「声を聴いた瞬間、空気を一篇の映画にしてしまう」と評していた。
しかし、時計とかドアとか言い得て妙、完全に「不思議の国のアリス」である。
その演出家は、続けてこうも言っていた。
「Jessicaの声は、個だと思う。個、一、単一、空があったらその下で対になるもの、ひとつの凛としたモノ、そんな気がする。」
法外な賛嘆の言葉であるけれど、わりとその通りだと思う。
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その劇団の公演は、以下です。そのJessicaはシューマンのLiederkreis intermezzo歌います。
たぶん彼女の歌曲を聴けるのは最初で最後です。
ぼくも一曲書き下ろしました。
3/29,30
開座アトリエ公演
18:00~
Ticket 2,500yen
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そして、ついに4月はリリースパーティー第一弾です。
詳細はこちら。
新譜の製作も終え、PC周りと機材をアップデートして、譜面をかりかりまとめて書く。
手書きで譜面を清書するときが作曲工程のなかで一番充実している時間だ。
音が定まる、音が渡る。
やたらと時間がかかる。
つくるときもそうだけど、二番目の和音に一番時間をかける。
二つ目の音で、風景が決定する。人跡未踏の地。行き先はもう定まった。
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SAIDERA MASTERINGの森崎さんにマスタリングを手掛けて頂いた。
素晴らしい技術である。風通しがいい。マスタリングでこんなに音の透明度が増すのか。
そう申し上げると、「楽曲のなかにそれだけのポテンシャルはあるんですよ。
それを見つけて、どう取り出すかがマスタリングの技術です。」とおっしゃっていた。
漱石、夢十夜。
コーヒー牛乳のなかから、牛乳だけを取り出すことはできない。
けれど、牛乳の味を想像し、遡及的にその配合を論じることはできる。
想像力とは地図を書くことではなく、そのときに適したささやかなシグナルを選び取る能力である。
家に帰って、proofを試聴する。
信じられないことに全曲良いのである。
作ったぼくと、聴いているぼくはもちろん別人であるから、自画自賛ではない。
明日のぼくが同じことを言っているかは断言できないけれど、これはたぶん一聴の価値ありです。
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2/17「Nebular for thirteen」
PROGRESSIVE FOrMより、リリースします。
(来月辺りHPを一新するので、そのときに詳細は書きます。)
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焚き火をする。焚き火は法律で禁止されているそうなのだが、
四の五の言わず、木を燃べろと、時代がわたしたちに要求する。
なので、ジャック・ロンドンに倣い、ぼくらは、ただ、BUILD A FIREするのである。
しかし、焚き火を創造するのは風だし、焚き火のエンドユーザーは空である。
となると、焚き火の前で立ちすくむ俺らはなんなんだ?
ぼくらが消費するのは、ぴかぴかの貨幣でもなく、ぴちぴちの情報でもない。胡散臭いアイデンティティーでもないし、つまらん言葉なんかでもない。「木」だけである。なんてプリミティブで、かつ音楽的なんだ。それに炎があがることについて誰も言い訳が出来ない。なにより温かいのである。
http://www.youtube.com/watch?v=N-TnBoSJgmI
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「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。
洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。
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日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。
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最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。
「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。
大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)
ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。
救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)
こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。
なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。
それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。
「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
(モーリス・ブランジョ『終わりなき対話』)
譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)
あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。
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昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。
国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。