ngatari ガタリ
Art Work by Hana Akiyama
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備忘録

石内都@目黒美術館
サリンジャー戦記@村上春樹×柴田元幸
子供は判ってくれない@内田樹
ワンピース最新刊@おもしろい!
ジャックデリダ@エクリチュールと差異を購入。
一行とて意味がわからない・・・。
苦役の読書以前に、判読不能、理解は絶無、ロシア語を眺めているほうがまだ愉快である。
豆腐にかかっていたのが醤油ではなくソースであったときのような
諦めと無力感が喉元までせりあがってくる。
よかったらどうぞとブックカバーをつけて愛猫にあげる。


猫が神妙な顔つきで、床に鼻を擦りつけながらうろうろしている。
失われた記憶を探しているように見える。
あるいは、身体の底を覗いているダンサーのようだ。
いずれにせよ、コイツ暇そうだな。


山口薫展

とっても良かった。美しい。
何かに対して美しいと思ったり発語したとき、
自分のその感情が現在よりちょっと昔にある気がして、
また、それらは少し哀しみを帯びている気がする。
懐郷の念がそうさせるのでしょうか。よくわからない。
最近良いものを見ると、やたらとノスタルジックに見える。
でもこれって別に、懐郷の念ではないように思われる。
郷愁というのは別に遠い故郷や、過ぎ去った記憶にのみ寄り添う感情ではない。
「そこに行きたかったんだけど、実際そこに行くことができなかった」場所や
「ずっとそこにいたかったんだけど、立ち去ることを強いられた」過去や
「欲しかったんだけど、ついにそれを得ることができなかった」モノに対して
人は強く感情を残す。
ノスタルジーとは、そのような「強く欲したことのあるモノの記憶」が長い時間をかけて醸成し、自分自身の記憶として顕在化したにすぎない。

だから、行ったことのない美しい場所にこそ人は強く追懐の念を抱き、
夕方の公園をみては、里心がついて目を細め、
綺麗な女の子をみては、思慕にトリツカレて後を追いかけたくなるのです。
(5時の鐘が過ぎても親に強制帰宅を促されなかった人は、たぶん夕方の公園にノスタルジーなんか感じないであろう。)

過去の自分(あるいは他者?)が欲しがったものへの欲望は、
とても潜伏期間が長く、感染力が強い。
ノスタルジーとは、故郷を懐かしむ気持ちではなくて、故郷の(あるいは欲求の)忘却を成就させるまでの、遠い記憶に対する留保された価値である。
だからノスタルジーは未来的だ。過去からずっと続いて現在を通過して行く、先々への希望(あるいは絶望)とも思える。
美しいものはいつだってノスタルジックであるが、ノスタルジーという感情は、美しくはないし、また過去形で語ることもできない。
あれ・・・。何言いたいんだか、よくわかんなくなってきましたね。
ともかく山口薫の絵は非常にまったくノスタルジックであった。


チューリップの球根を頂く。
水につけておくと、早々と根っこが水底に向かって伸びだした。
なんてイノセントなんだ。そしてなんて節度がないんだ。
でもこいつは水分が欲しくて食指を伸ばしているわけではない気がするな。
自分を「ここ」に縛り付けるために、また、自在であることを自制し続けるために
水、あるいは土の底に突進している気がする。
他の動植物と過剰なコミュニケーションをとらないようにするために。
無関心を装うために。

植物は寡黙でもないし、饒舌でもない。
ただ、世界を達観するだけだ。
彼らは天地をはっきりと示すけれど(示さないヒネたやつもいるが)
それは、世界を倦厭していった末に残る唯一の中立的な振る舞いであるように思う。

そうか、こいつは節度がないのではなくて、
節度を欠いた生物間の協定やミューチュアルにうんざりしてるだけなんだな。
いざとなったら、根っこや樹枝をばたばたさせて、大空に羽ばたくのかもしれない。
そして、我々もそれにうすうす気付いてるからこそ、
物語のなかで、繰り返し擬人化した樹を描き、植物に対して畏敬の念を抱く。
やっぱりこいつを土に埋めるのはやめようか。怖いし。
ただ、我々が植物から学ぶのは、彼等の寡欲さでも、淀みのない思考でも、あるいは清いほどの節度でもない。(やっぱりどう考えてもある種の節度はないし。)
欲望を自制しつつ、本能に忠実にいること、このやや背理的な生え方、いや生き方である。
名前はカジくんにします。


それでは最後にアクチュアルなテーマです。
明日のライヴのタイムテーブルがまだ出ません。
たぶん、ライブハウスの方は多忙を極めているのでしょう。年末だし。
あるいは、渋谷にあるライブハウスだけを狙って、渡り鳥が襲来したのかもしれません。寒いし。
ちなみに、ライブハウスのHPにはオープン/スタート時間は未だ明記されていません。
でも、18:30からみたいです。遊びにきてください。






10月のレコ発、11月の天国イベントを終える。
備忘のために先月と今月の観たものなど。
10月の国吉亜矢子さん、11月の天国さん、すっごく良かった。

■丸山直文展
よかった。距離がなくて、ぽつぽつとした調和、音楽的。
■モーリスルイス展
いや、行ってないけど。行かないと。
■山口薫展
行かないと。
■エモーショナルドローイング展
行ったけど終わっていた。

ほとんど何も見れてねーじゃねーか。
ぼくの作曲能力は、良い絵を観たり、良い本を読んだり、素敵な女の子とデートしたりしてはじめて涵養されるシステムなので、もっとアクティブに生活しないと。新曲を書きました。新しくなんかないけれど、新曲は新曲だ。最近、寡欲なほどにストイックな生活をしているので、恐ろしくハッピーな曲です。恋の歌。シューベルトなんて聴きながら書きました。ハッピーな曲です。
出来上がると、実はライヒのような曲が作りたかったことに気付く。
形となった作品は往々にして、自分の意思とは少し離れた場所に根っこを張る。でもこの「こんなつもりじゃなかった」的乖離があるかぎり、音楽を続けるモチベーションは失効しないよ。たぶん。
と思ったら、半年前にも同じようなこと書いている。
備忘のためといいつつ、一体ぼくは何をショウオフしようとしているのでしょうか。
次。

後日追記:
モーリスルイス@川村記念
良かった、すごく。 アルバムを通して聴くと見えてくる風景のように、作品を一望してみると、展示室はとても清潔で深閑としている。 寂しくない。カラフルな森。もっと見たい。
もっと見たいと思う絵を久しく見ていなかった。 悲劇的に遠かったけれど、行ってよかったな。常設もゴージャスだったし。
しかし川村記念って良いところだね。むかーし行ったきりだったけれど。何か、追懐の情をふつふつ感じるような、池があって、紅葉した木々が茂っていて。 明かりも慎ましくて。


遅いけど、オバマさんおめでとう。
でもこの人、利己的に見えないほどに利己的なふるまいをする気がる。つまり、オバマさんが格差のない平等なアメリカを望めば望むだけアメリカの国際的孤立化は終息しない。(と思われる。)将来的に。ブッシュはともかく、なんでアメリカはニュートラルで中間的な人選をしないかね。
次。


「何かよくわからないけれど、もっと別の物語が隠されている気がする・・・」と思わせる曲が書きたい。別にぼくら自身がそれをサジェッションする必要はないし、作者の意図なんてどうだっていいのだけれど、そのような「聴こえないけれど、他にも何か鳴っている気がする」曲を作りたい。倍音のように身体に少しずつ響いてくる何か。読み取れない、聴き取れない何かにこそ抑え難く、人の興味は惹きつけられるものだから。
なので、新しい曲の登場人物には名前があり、生業があり、生い立ちがある。そういう物語の輪郭をひとつひとつ書き込む。(歌詞や五線譜には書き込まない。妄想してにやにやしているだけ。)そんなんで曲に厚みが出るわけねーだろ、バカじゃないの?と思われるかもしれない。でも出るんだよ、そういった物語の温度が、発声やピアノの質感に滲んでくるんだな。これが。

音を聴いてふむふむと頷ける曲や、文章を読んで合点がいく書物には知性の躍動を促す効能はない。自分の知っている(でも気付いていない)ことを表面化させるだけである。スッキリして気持ちよくなって。譜面化していない音に気付いて、文字化されていない行間を読むとき、はじめて世界は色づいて、愉悦の瞬間が訪れるのだと思う。

というようなことを映画レビューで内田樹氏が書いているので読んでください。http://movie.tatsuru.com/2005/02/03_1331.html


カミュ「幸福な死」
橋本治「桃尻娘」
埴谷雄高「死霊」
高橋源一郎「ぼくがしまうま語をしゃべった頃」
サフォン「風の影」
なんだこの月間読書リストは。
頭が痛くなったのでコールドプレイを聴く。
Viva la vida ピース。






永く、苦しいアレンジ―ミックス作業が終わって、マスタリングも無事に完了した。嬉しい。
この作品は掛け値なしに素晴らしい!と言いたいところだけど、
もう5万回ぐらい聴いているから、それが良い出来なのかどうか、ぼく自身判断ができない。
自信がないのではなくて、ホントにわからない。
音楽という水脈のなか、是非はもちろん、どのようなポジションで、どういった種類にカテゴライズされるのかも説明できません。
あるいは、想像力の欠片も見当たらない代物かも。
だから一度聴いてみて、忌憚のない意見をきかせてもらえると嬉しいです

試聴



さて、マスタリング、プレス費等によって相当お金がなくなったので、最近の食卓は非常にマッタク侘しい。スーパーの売り場の風景がいつもと違うの。もちろん商品が進化の過渡期だったわけではなくて、値段が高くて、どいつもこいつも手がでない。128円のトマトがすんごく高貴に、ワンダフルに見える。仕方がないので、鰆を諦めて鯵をカートに放り込み、椎茸の代わりに舞茸を、牛肉なんて手がでないので、鳥のささ身。長ネギやら豆腐やらを辛気臭く見繕う。いっちばんやっすい発泡酒、異例の抜擢。品質やら安全などという言葉とはついに無縁のカートを持って、帰路につく。買い物がつまらないというのは、料理をしたり食べたりするときよりもフィジカルに堪える。

ところで、他人のショッピングカートのなかを覗くというのは、なんとなく気恥ずかしいと思いませんか?何か、他所の家のキッチンやら、食卓やら、生活スタイルまでも想像できてしまって。女の子の部屋に無断で立ち入るような、背徳感って言ったら言い過ぎだけれど。



時間が出来たので映画を見たり本を読み漁ったり、つまらん党首討論を眺めたりしながら、2、3日を惰性のうちに過ごす。毒にも薬にもならないテレビ番組を見ていて、最近のCMは(おもしろいけども)不条理に満ち満ちていることに気付く。

CM:
オムツのCMが延々と流れている。彼らオムツ業界(そんなものがあるのかわからないけれど。)は、オムツを従来のものより通気性が優れていて、おしりがかぶれないものにしようと切磋琢磨しているけれど、果たして、「赤ちゃんがおしっことかうんちとかしたままの状態でも全然苦にならないレベル」を向上させることが良いことなのかどうか、疑問だ。オムツ離れを遅らせる遠因になりうるのでは・・・とか思ったり。

あと、ニコレットを作っている会社が、煙草の会社が遠くで糸ひいているような気がしてならないのだけれど。喫煙と禁煙のシーケンシャルなループを作っているような。自浄能力がある(フリでもいいけど)というのは、世間に聞こえがいいし。
そういうの多いよね。
お金は借りすぎないでと釘をさす金融機関だとか、転職を成功させまいとするリクルートとか(彼らは就職のモチベーションをあげて労働のモチベーションを下げるスペシャリストだ。そうしないとビジネスにならない。)まぁ挙げたらキリがないんだが。

映画:
「蛇いちご」を観た。「ゆれる」を観たときに、役者の力だと思っていたけれど、監督・西川美和は才能あるね。終わりまで(終わっても)関係をはっきりさせずに保留にしておく歯切れの悪さが、とてもいい。
「結局どうなったの、あの人たちって・・・」という?付きの後味と、音楽とストーリーの緩急が素晴らしいと思った。なんとなくジブリにもそういう決然としない"勇敢さ"ってある気がする。
「ゆれる」や「蛇いちご」に登場する兄弟もそうだけれど、人間関係って、そんなにキッパリスッキリしていないよね。もっと曖昧で、そしてこの映画のようにパセティックだよね。


子猫を拾った。名前を「そばつゆ」か「赤カブ」かで半日悩む。






公演によせて。

前未来形という文法がある。未来のある時点において既に完了した行為を語る時制であるけれど、良いダンスは、動作一つ一つがそのような「物語の成就」を目指しているように見える。
野球の打者がボールの軌道を予測するように、ぼくらもダンサー自身もこぞって、そこに身体が在ってほしいと希求する。すると、身体がそこに行き着く前に、緘黙の空間に美しい軌跡が響く。ダンスとは身体を動かす技術でもなければ、形式に凝縮された優美な表現でもない。
身体の底に残っている密やかな記憶、それらのざわめきに耳を澄まして、未来に静かに歩み寄る技術がダンスである。それは自らにふさわしい着地点を目指す、自明の物語だと思う。
川が無反省に大海を目指すように、ぼくらは自在に、ただ従う。涼やかな竝木のように。

来ていただいた方、スタッフの方、感謝します。






とんでもなく暑い。ふざけるんじゃない!酷暑なんてもんじゃないぞこりゃ、くまなくエアコンつけやがれ!と申し立てているのは、ウチのアンチエコロジストのタキタニ(愛猫♀)である。
冷やしタオルとペットボトルを常備するタキタニ。


パソコンを新調しました。旧マシンは購入してから4年経っていたのでもう限界。ニューマシンはDELLのデスクで、Core2QuadのQ9550 2.83GHz メモリが、4G RAM
このスペックを解する方には垂涎モノのマシンのはず。すこぶるハッピーです。ちなみにOSはWindows XP 。Vistaはまだ早い。


家族で温泉に行く。ビーチで、無心にプチダムを作り続けたため、大いに日焼けする。仰向けで寝ることができない。


8月は28日と31日にライヴがあります。

28日は、代官山の『晴れたら空に豆まいて』
この日は、中高時代の親友である横山礼恩くんのバンドを迎えてのイベント。

今でこそ、皆あたりまえのように変わった名前を持っているけれど、当時としては、ぼくと彼の名前は、「必ず一度は聞き返される」珍しいものだったので、「自己紹介、ホント不愉快じゃね?」と意気投合し、以来、シンパシーを感じ続けている友人である。
(一度、自己紹介をしたときに、『冗談はやめなさい』と女性の先生に怒られたことがあった。失礼なセンセイである。)

彼は昔からとてもセクシーな歌声の持ち主だったけれど、校内喫煙が幾度となく見つかって退学になりかけたり、当時の彼の成績では無謀ともいえる有名私大を受験してみたり(その後、するっと合格していたけれど…)女の子を追って海外に飛び出したりと、波乱万丈な人生を送っていた。そんな彼も、紆余曲折を経てミュージシャンとして渡世を送ることを期したようです。観たくなったでしょ、ライブ。

どら Presents Live Event
ガタリ, スガダイロー, 玉ゆら, Yukikaze
晴れたら空に豆まいて
Open / 18:30
Start / 19:00
前売り / 2000yen(1drink別)
当日 / 2300yen(1drink別)
http://www.ngatari.com
http://www.myspace.com/yukikaze001

それから、31日はコンテンポラリーダンス公演にて、音楽/音響を担当します。こちらはガタリとして参加するわけではないので、内容は割愛して告知だけ。ほかで書きます。

コンテンポラリーダンス公演
「並木、その上枝五彩に放つ」

日時/2008年8月31日(日)
2回公演
13:30開場 14:00開演
17:00開場 17:30開演

会場/アサヒアートスクエア

チケット/前売り:3500円 当日:4000円
学生・子供:2000円
全席自由・1drink付
チケットの申し込み・問い合わせ/電子チケットぴあ
http://pia.jp/t/ Tel.0570-02-9999 Pコード:388-443


いくつか映画を観る。

『迷子の警察音楽隊』
静かで、音楽があまりないけれど、映画のなかで確かに"音楽"が通低音のように流れている。美しいディテールから想像力が沸き返るような、とっても良い映画だった。

『マインド・ゲーム』
映像が凄い。こういうパワフルで緻密な構成のアニメ、なかなかないよ。







ぐっすり眠る。
お昼、ライブのお客さんに頂いた、「手のべ半生うどん」というのをこそこそと茹でて食べる。美味い。うどんと赤ワインって合うよね、ほんと。


円盤でのイベント「ウィリ山ウンテン」に参加させて頂きました。
Suara Sanaのヴォイス・パフォーマーである徳久ウィリアムさんに誘っていただいた。

Suara Sanaはガムラン、口琴、ホーメイ、ガタムなどの奏者で編成されたバンド。近年、ガムランや民族音楽とカテゴライズされる音楽ユニットは辟易するほど流行っているけれどそのような人々とは一線を画すグループだった。

彼らの音楽を聴いて、ぼくはソシュールの「ラング」という言葉を思い出した。
(「ラング/ランガージュぐらい知ってるわ、バカにすんな」という方は読み飛ばしてください。)
「ラング」とは、言葉によって、本来『切れ目』の入っていない世界に『切れ目』を入れて、その切り分け方を共同体のなかで共有してゆく言語活動のこと、要するにぼくらにとっての「日本語」である。
ソシュールは、「思考回路というのは、星雲のようなものだ。」と言った。事物の名前というのは、人間の恣意的な『切り分け』によって決定され、その後はじめてそれらは人間の目に見える形で姿を現し認識に至るという。そんなことあるわけないと思うでしょ?でもそうなんですよ。(ソシュール曰く。)
たとえば、仏語では、「papillon」は「蝶」と「蛾」の両方を含む概念であるけれど、日本語は違う。「蝶」といえば美しく舞う艶やかな昆虫を指すが、「蛾」を美しいと定義する人は日本語話者のなかにはあまりいない。要するに、フランス語話者にとって、「蛾」という生物は存在しないということになる。同じように英語の「Tree」と「Wood」を合わせて、日本語にとっての「樹」であるし、日本語の「肩が凝る」という言葉は英語には翻訳不可能である。英語話者にとって「Treeで作られた建築物」という言い回しは"できない"し、彼らはいくら重労働をしても「肩が凝ら」ない。(不思議だなぁ。)また客観的対象と思われがちな「虹」ですら、日本語では七色と認識されるのに対し、英語では六色と数えられ、南アフリカのある地域の言語のなかには、二色として定義されている例もある。彼(ソシュール)は言語というものが、人々が満天の星空をみて、見る人それぞれが夜空に切れ目を入れて星々を繋ぎ、「くっきりと」そこに星座を見出すことと同じだと考えた。

(ソシュールに興味ある人は「ソシュールと言語学」町田健著などを読んでみてください。)

ただし、音には名前をつけることができない。音楽の優れたところは、(というか国境がナイと言われる所以は)そこにある。ドレミは名前だろと反論されるかもしれないけれど、それは、ソシュールの言うところの共同体や民族によって定着した「切り分け」なわけよ。(虹の例と同じ。)たとえば、"ド"に限りなく近い"シ"とか、噪音(倍音)には名前がない。インドのラーガに絶対音高はないし、鳥のさえずりは12音階では捉えることはできない。(アラブ音楽の音階?であるマカームは1/4音を定義したりするらしいが。)名前がつかないということは、言語圏によって限定された概念そのものがないということだ。世界的信認を獲得できる音楽というのは名前がつくことがない。誰もがそこにあると知っているけれど、すくいとって見せられるまでその存在に気付かない音たち。そのような音を操ることのできる音楽家だけが、世界のどこからでも仰望できる(言語や民族を超えた)星座を描くのだと思う。(ということは、音の認識の場合、『音⇒命名』ということになりますよね。)

話がそれました。

Suara sanaは凄い。
彼らは手を使い、あるいは喉を振動させて世界中で無数に漂っている音たちに『切れ目』を入れていくように音楽を奏でる。次々と生み出される音の洪水は、夜空に独創的な風景を描いていたし、また美しい物語であった。それは誤字も脱字も存在する生まれたばかりの言語である。彼らの音楽が楽しくて、鋭利でまた、誰にでもその美しさが体感できるのは、聴き手にも奏者にとってもそれが手垢のついていない、できたてほやほやの音楽(星座)だからだと思う。生まれたばかりの音楽(インプロビゼーションという意味ではなくて)というのは、聴き手のものである。聴き手ひとりひとりがそこに物語を感じて、唱和できる音楽というのは、おそらくその音が聴き手にとって唯一無二のオリジナルだからだ。Suara Sanaは、奏者と聴き手だけに共有される親密な音楽(星座)を作り出すことのできる素晴らしいな音楽集団だった。
(レビューみたくなってるが…。)

といっても、誰もがそのような芸当を持てるわけではない。
「内からふつふつ沸くインスピレーションを表現する手段」という言い方で音楽を捉える人がよくいるが、これは大きな誤りである。音は人間の中に存在しないんだから。自分の持つ「音」を表現するのではなく、世界に散在する音たちに次々と『切れ目』をいれ、形作ることが、予測不能で素敵な音楽を産むのである。とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃうのが真のアーティストであり、イライラしながら自分の中の良い音を探そうとして、「こんなダサい音で良い音楽なんてできねーよ!!」と逆ギレするのが、凡庸な音楽家(ぼくとか)である。残念ながらそのような力業では良い音楽は作れない。(と知っていてもキレ続けているけど。)
また「とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃう」能力というのは、「世界中で無数に漂っている音を選び取る」という技術に裏打ちされている。「とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃう」人というのは、人知れずトレーニングを繰り返し、鍛錬を積んだ(よーするに練習に励んだ)人にのみできる奇跡的なパフォーマンスなのかもしれない。

というようなことをぶつぶつ考えながら、円盤に出張していたコジョウさんの美味しいカレーを食べた。
同じようなことを考えていたのか、ライブハウスを出たあと即座に、我らがボーカリスト・Jessicaがぼくにこう言った。「もっと練習してください。飽くなき反復のなかにだけある、ふと浮かび上がる奇跡的な音って、あるんだよ。」

とっても楽しいイベントでした。
ウイリアムさん、Suara sanaの皆様ありがとうございました!
http://suarasana.com
http://william.air-nifty.com


引越のため、ピアノ運送屋さんにピアノ運搬のための見積もりをお願いする。引越自体にかかる経費をはるかに越えた金額であった。じゃぁ、もう自分でひきずっていくよ。


タキタニ、帰宅すると安心したのか、爆睡。


次回は瀟洒なホテル、CLASKAでのライブ。
楽しみです。
http://www.claska.com
http://www.claska.com/blog/2008/07/725fri_ngatari.html






帰国しました。

ローマのライヴはとても素敵でした。
スタッフの方々、Rivombrosaの皆様、感謝しています。

Vi Ringrazio tantissimo con tutto il cuore.
Siete stati davvero gentili.
Avremmo voluto rimanere piu a lungo con voi!
Ripenso alla nostra notte al Club Sciamano...
Mi piacerebbe moltissimo rivedervi.

往路、復路それぞれ、上海と北京だったのだけれど、
あの国はスゴいね。まったく。
行きはともかく、帰りは酷い目にあった。ローマ―北京のフライトが到着したときには、北京―東京便の出発時刻を大幅に過ぎていた。空港の方々にその旨を伝えると、「あぁそうなの、じゃあのひとに聞いてみて。」と、2時間ほど空港内をたらいまわしにされ、何故か四度も荷物検査&出国手続きをさせられ、極めつけに三回パスポートに「出国」の刻印を押された。そして、英語が通じないの。ほんとに。

会話の成就もなし得ないまま、たらいまわしにされた挙句、最後にパスされた女子高生みたいな空港員は、「アタシ、よくわかんないのよね、そういうの(笑)」とガムをかちかち咀嚼させながら、3時間後の便を再発行してくれた。他国に遺恨だけは残さないと怒りを鎮め、北京上空からの眺望を血走った目に焼き付けた。成田につき、疲労困憊の身体で、お土産のシチリア産の塩をひきずりながら都内までのアクセスを確認すると、交通機関は既にすべて運行が終了した後だった。
ハッピーな紀行日記の序文が、世界的信認を失った国へのバッシングです。

さて、イタリアはといえば、ミラノ、ベネツィア、フィレンツェ、ローマに滞在したのだけれど、4年前とはずいぶん風景が変わった。(イタリアという国はそう簡単に変わったりしない。変わらないことで、世界的観光名所の地位を獲得している国だ。もちろん変わったのは僕自身である。)でも、それらの街の魅力を語るだけの紙数、いやバイト数も時間もないので、今回はベネツィア。

あの街はいいぞぉ。
ベネツィア・ビエンナーレや、カーニバルは有名だけれど、なんといってもベネツィアは路地が良い!やっぱり、その土地の良さは歩かなくちゃわかんないんだよね。もちろん車は一切ないし、人家の玄関から扉を開ければ運河である。スーパーマーケットの駐車場に乗り入れる日曜日の家族連れと同様に、大型マーケットの端っこに船を着けて、買い物袋を積みいれる母子と、ハンドルを握るように舵を握ってゴンドラを出す父親。生活に船が溶け込んでいる。旧市街の路地を歩くと、カフェがあり、橋があって、洗濯物を干した人家が、シーケンシャルな絵葉書のように目に留まる。サンマルコ広場は、ややツーリスティックに過ぎるけれど、夜は薄い靄で包まれ、ルネサンスのゴシック建築が闇夜に浮かび上がる風景は、比類を見ない。ベネツィアに行く機会があれば、昼夜問わず歩きまくってください。船乗って観光しても、全然おもしろくないです。

一日目は、歩きつかれてベンチで寝ていたら、いつのまにか水の都も深更に至り、めんどくさいのでそのまま野宿。朝日を浴びて目を擦っていると、観光客に「何故かベネツィアでホームレスやってるアジア人」として写真を撮られる。愛でるべき酔っ払いジプシーと目が合う。
彼とは気持ちが十全に伝わる。古いカフェでカフェラッテとブリオッシュを注文し、おばちゃん三人の井戸端会議に参加する。二日目も、ただひたすら歩き続け、チーズと生ハムとパン、果物を購入し、夜行列車でアレッツォ経由、フィレンツェに向う。

つづく。次回はフィレンツェ編。







チャンピオンズ・リーグが終わって、フツーの(朝起きて、夜寝る)生活に戻る。戻したい。


食卓備忘録をつづろうと思っていたけれど、あえて食卓を備忘することもあるまい、と、断念。めんどくさい。美味しくできたお皿をたまに書くことにします。
昨日は、たけのこを頂いたので、たけのこご飯とゴーヤのサラダ、カツオのたたきを美味しく、ハッピーに頂く。今日はきのこをバターで炒め、ほうれん草、鰹節と和える。キャベツ、アンチョビを出汁でぐつぐつ煮込み、じゃがいもをくわえて和風ポトフを作る。(コレ、何度も書いてるけれど、ほんとに美味しいんだ。)アスパラも焼いて塩で食べる。美味。


あれよあれよと一日も深更に至り、腹が減ったので(結局昼起きて、夜寝れない)コンビニで甘いものを購入。美味しく、ワンダフルに頂く。
夜風は涼やかで、初夏の匂いがする。夏が近づいてきたので、渋々ナツミカンを購入。さっそく食べる。甘いものを食べたあとすぐに果物等を食べると、やたらと酸っぱく感じるけれど、なぜでしょうね。糖質知覚機能が麻痺するのでしょうか。あるいは甘党への戒めでしょうか。


最近なぜか駅前に、麻薬防止のアフォリズム(というより、気持ちの悪いキャッチフレーズ)が並ぶようになりました。なんで今更?と思うけれど、まぁ、この辺ではきっと麻薬乱用が地域的趨向なのであろうから(しらんけど)役所の方々の苦肉の防止策なのかもしれない。
「麻薬絶対だめ。誘惑に負けない勇気を」なんたらこうたら。
まるで村上龍の書く自己啓発本のようだ。麻薬を忌避してやまない(もちろん善意の)人々がこういう看板を見て頷き、対麻薬常習者に対してプチ・カタルシスを得るだけである。

麻薬大好きな人に、麻薬のデメリットを説いても、無駄であるし、パセティックな教化論に陥るのが関の山である。麻薬をどうしても止めさせたいのであれば、「麻薬止めますか?人生止めますか?」のような糞キャッチフレーズで煽るのではなく、彼に新しい価値観を提案して、「麻薬より、こっちのほうがハッピーかもしれないよ」と打診するしかない。余計なお世話だけどね。
でもまぁそれしかない。
コモンセンスというのは個人的なものだし(あたりまえだけど)「これが正しい、それは間違ってる」なんて誰にも言えないから、「より充実した」「よりハッピーな」ストーリーを提示するしかない。
ぼく自身は麻薬を肯定も否定もしないけれど、とにかくその汚い看板を置きまくるのはやめてくれ。


愛猫の額にガムテープ貼ったら、30秒ぐらい頭を抱え込んで動かなくなった。


いくつの映画と、いくつかの展示を観る。
結局、ティルマンス展に行けず。
秦如美展には行こう。
弟の企画・ディレクションしたPOSTALCO展に行く。良い。涼やかで。
http://www.book246.com/tg_f.html
http://www.suyama-d.com
弟のコラムはこちら


イベントのタイトル考えるために中原中也の詩を再読し泣く。

  港の市の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。

泣く。






塑性の君たち
青山と渋谷のライヴが終わりました。さて再び、アレンジにとりかかろう。


渋谷公園通りクラシックスのPsalmイベントは良かった。
Psalm、細谷季子、両君ともに純度の高い良いパフォーマンスで
会場は暖かく、そして親密な時間が流れた。

ぼくらの前に歌った細谷さんの歌は弾力があって、濁った水のなかを泳ぐ、澄んだ魚の眼をした歌い手だった。人は元来矛盾した存在だけれど、その矛盾を表現する人は稀である。(矛盾なんか認めたくないんだから。)
彼女のお陰で、ぼくらは心地よく演奏することができた。
Psalmのステージは本当になめらかで、円転滑脱に進行する、完成度のとっても高いものだ。
うーん、明確なイメージが浮かぶよ。高揚する静けさも、唸る沈黙も。学ぶべきことの多い二人。
そして、深い敬意を感じずにはいられない。
慈悲喜捨たる、Psalmのおふたり、細谷さん、お客さん、あとNGATARIメンバーズ、愉悦の時間をありがとう。

前日、ボーカル・Jessicaの声が出ないというアクシデントがあったのだけれど、それが良かった。奏功したといってもいいぐらいだ。抑制され、条件を課せられた状態のときにおいてのみ、進化の芽はアクティブなものとなる。というようなことをつらつら書こうと思ったけれど、このネタ前に書いたな。というわけで割愛。
http://www.ngatari.com/blog/2008/01/post_2.html 
(でも、ほんとうにやる気なくしてたんですぼく。直前までは。)


夜もふけて、テレビの前でぼんやりしていると、セイフティーネットの破綻、社会保障制度の没落をかなりネガティブに報じている番組がやっていた。企業の正規雇用削減のためにリストラ、または辞めた人々が、従来の(終身的に確約されていたはずの)保険を受けられずに、病気になっても治療を受けられないということを淡々と諦めたように報道する番組だった。
いったいこの番組のTVディレクターは誰に何を訴えているのだろうか。他責的な切り口なのだけど、
どの方面にベクトルが向いているのかがわからない。政府だろうか、経営者だろうか。その両方だろうか・・・。

確か以前、小泉元首相が「多少の痛みは我慢してくれよ。未来のこと考えてさ。」という言い方で構造改革をはじめたような気がする。(だいぶ言い方は違ったけれど、ようはそんな感じだった気がする。気がするだけかも。)
別に、痛みの多寡にケチをつけているわけでは全然なくて、お知らせしておくべきだったんじゃないの?と思うのです。また、「未来のことを考えて」というセンテンスを身体的に感知させることは不可能であるから(だって、地獄のような未来なんて誰も想像したくないし)
小泉さんは「多少の痛みの代償として、おまえらの子供・孫世代が幸せになるかもしれません。よろしく!」とアナウンスし、かつ、プロレタリアたちに向けて「構造改革によって、フツーに病気になったり、治療を断念したりしなくちゃなんない場合でてくると思うけど、我慢してね。」という留意をするべきだったんですね。だからこんな不幸な番組を夜中の1時に垂れ流すはめになるんです。


そうそう、イメージをね、確立しなさいと言われたんです。友人にね。
ガタリの致命的なところは、確固としたイメージが持てないところだというんですね。
ぞっとしましたよ。ぼくは。愚かにも「良い音楽さえ作っていれば」と確固たる指針を逡巡していた自分に、はと気付いた。音楽が記号的に扱われることの是非はよくわからないけれど、イメージを作っていく、共通したイメージをメンバー全員が持つということは、何よりもプライオリティーの高いことだというあったりまえのことをおざなりにしていたわけです。

で、何故ぼくがぞっとしたかというと、以前書いたように、情緒的でメランコリックな曲を書いているわりにそれらは全然書きたいものではないということ、その乖離感を心地よく享受していること、そのことが「イメージわかねぇ」的問題の根本理由だと思ったから。
何が言いたいかわからない、色彩に乏しい、曲と歌が相容れない、などなど・・・。
この原因は作曲にあるのかもしれない。
さぁ、どうしよう。

(キーワードは『雨』、NGATARI HPのトップ見て気付く。雨が降ってはじめて姿を現す、風景がある。形があるのではなくて、形を作る余白、音楽が鳴ってはじめて気付く、沈黙。闇があってはじめて気付く、光。)


備忘録
・ヴォルフガング・ティルマンス展。
・横尾忠則展。
・モディリアーニ展。






最近、外国旅行記をぺらぺら読んでいて、酷く外国に行きたくなってしまった。
(字面から想起される外国の風景は、ぼくの場合、なぜかいつもきまってスーパーマーケットなんです。なぜでしょうか。)
でも、とくにそんなエッセイを読まなくても定期的に外国逃避願望がふつふつと沸く。
外国に住むということのメリットは、言葉が通じないことだ。
メリットというと、いささか語弊があるけれど、自分にとって自明的ではない言葉に囲まれて
絶対的なコミュニケーション不全に陥るがゆえに獲得できる欠落感や否応なく気付かされる人間の先天的に持った"病態"というものがあるからだ。(獲得できる欠落感、なんだそれ)


たとえば、外国人と膝を交えて話をしているときに、どうしても自分の考えや意図が通じないという場面は多分にしてある。そんなときは悲しいし、無力感を感じずにはいられない。
けれども考えてみれば、日本人同士だって言葉が通じないことは多々あるじゃねーか。と思う。
会話の成就は、ボキャブラリーや知識の多寡にだって因るし、世代が違えば、環境が違えば、性別が違えば、分かり合えるどころか、まったく気持ちが通じないことさえ、ざらにあるのだ。
仲間内で一人だけ話についていけずに、置いてきぼりを食うこと、"ローカルネタ"や"KY(空気読めない?)"という状態にだってコミュニケーションの不全は見られるのだから。


そもそも、ぼくらはいったいどれだけの人とシンパシーを感じ、あるいは気持ちの伝達を達成できているのか。ぼくらは無意識下で、気持ちを十全に伝え合うことなどそう簡単にできるものではないということにおいて"のみ"黙諾を完了させているがゆえに、「いいよ俺、その意見で。同意っス。」という付和雷同状態に陥るのである。
インサイダーに帰属しているというのは、まぁ、たぶんそういうことなんだろう。
ようするに、対話において、コミュニケーション不全は、意識したり自覚したりすることが困難なだけで、もともと内包しているものである。それが日本にいる限り、表面化されることはないだけなのだ。
そのようなコミュニケーションへの苛立ちは、外国にいると、希薄になる。「言葉にすればいいじゃん」的、自明性がさっぱりと払拭されて、自分の思考が涼やかに透明性を増す。
言語外にある音楽的なもの、あるいは言葉の風景が見えてきたりする。
コミュニケーション不全がもたらす弊害はいくつもあるけれど、(センソーとか、性差とか)
コミュニケーション不全が奏功して描くミニマルな世界は、とても素敵だと思う。
(だからぼくは外国に行く代わりに愛猫との対話で、会話能力の涵養を図っているわけです。)


語学学校の中庭にある石のベンチに寝転んで、フランスの太陽(そんなものがあるんだよ本当に。)
を浴びながら、授業の終了ベルを聴いていた時間、
夜、街の灯りも届かない丘に登って、空を見上げ無数の星を見上げた時間、
(信じられないだろうけれど、夜空の青い表面積より星のほうが多いのだ。)
そこには、語学学校に響き渡る動詞の活用も、眼下の雑踏も消えて、
地続きの、いや空続きの世界があった。(Imagine there's no countries~♪)


ぼくの老師は、はじめの授業で、「太陽の曲を書いてこい。」と言った。
翌日に半ば徹夜で書いた譜面を持って行くと、「これはイタリアの太陽ではないな。」と言って、
何時間もかけて書いた音符たちを消しゴムで綺麗さっぱり消して(油性ボールペンで書けばよかった・・・)「イタリアの太陽は・・・」と呟きながら、五線譜の上に輝く太陽を昇らせた。
当時、ぼくは「十人十色、人それぞれの太陽があったっていいじゃねーか。なんだその決め付けは。」と思ったものだった。けれど、彼が言いたかったのはそのような限定された思考ではなく、
世界が共鳴する色彩であり、言語外のイデアだったのだと思う。
老師との会話は極端に少なかったけれど、レッスンの間中、
淀みない言葉のやりとりが宙に浮かんでは消えた。(ゆえにぼくのイタリア語はザルなんですね。)


二年後にシチリアのエガディー諸島を自転車でちりんちりんと周遊したときに、ぼくは初めてイタリアの太陽を発見した。あの牧歌的な旅は素敵だった。
ハッピー。でもある種の哀しみを抱えた生活。


新しい曲を作らなければならない。
どうも近年、作りたい曲と、作った曲との間に、乖離がある。
あたりまえといえばあたりまえで、至極当然なことなのだけれど、その溝が昔よりも深い気がする。
頭の中のイメージを鍵盤で叩く、あるいは採譜して具現化する過程で、
当初持っていた輝きは、失われてゆく。
この乖離については、いろいろな人が同じ文脈で書いているけれど、
作品が少しずつ姿を現すたびに、「あれ、おかしいな。こんなもの作るつもりだっけ・・・」という違和感は誰もが感じることなんだと思う。
自分の発語した言葉が、往々にして本心から少し離れた場所に軌跡を描くときのように。
あるいは、眠りから覚めて目を開けると、今見ていた夢の筋書きがまたたく間に消えてゆくときの喪失感とも似ている。


歌っていない歌が響いて、語ろうとしていない言葉が語られること、
それらが唯一、世界に彩りを与える瞬間なのだと思う。







『エディット・ピアフ』という映画を観る。モーム・ピアフ(歌手)のサクセスストーリー。作曲家たちがピアフのもとを訪れて、自分の曲を披露し、歌って欲しいと請うシーンがあった。やっぱりさ、作曲なんてのは誰がしたっていいんだよ。歌手ありきのポップソングなんだよね。決して、曲ありきの歌手なんかじゃなくてさ。(世界中の歌手の垂涎の的になるような曲を書こうなんて思ってないし。)
さぁ、ピアノをもう少し練習しよう。


スーパーの鮮魚コーナーにて、酒臭いオジサン(ホームレスだろうな)から、魚の教義を受ける。
「川魚食うたら腹壊すからな。絶対やめとけ!ヒラキにしとけ!」
やだよ。淡水魚がだめなら、海のお魚買いますよ。ぼくは鰆が大好きなんです。モウカザメの切り身とアメリカ産の鱈も購入。

乾物コーナーには、いつも駅前のマクドナルドで恨めしそうに、そして厭世的に「てりやきエッグバーガー」の看板を眺めている浮浪者のおねえさんが立ちはだかっていた。最近はスーパーで雨風をしのぐのが世間的趨向なのかね。
彼女、しそのふりかけを手にとって丁寧に調べている。
もちろん、個人の自由なんだけどさ、あんた、ふりかけより米をどう手に入れるかが喫緊の課題じゃないの?
出汁の素が少なくなっていたので、煮干などを購入。


ライヴが続きます。
リハーサルの帰り、古本屋で、『思考する魚』@池田満寿夫と、『虹の理論』@中沢新一を発見。
帰宅後、テレビをつけると金八先生が映っている。
「わたしアメリカなんか行きたくない!(たぶん親の転勤で)」と叫ぶ、やたら綺麗な女の子(こんなソフィスティケートされた中学生現実世界にいないだろ。)に金八先生が、「わかった。僕がお父さんと話してあげるから。」となだめている。

おまえ、一教師が過ぎた真似するなよ。余計なお世話だろソレ。家庭の諸事情にいちいち学校が口を出すから、家庭側も勘違いしてしまうんだよ。「学校と家庭は一蓮托生なんだ。」みたいなさ。
はっきりいって、学校なんてものは、生徒の生き方や人格なんて無視すればいいんです。勉強だけ教えてればいいんですよ。あるいは、勉強だけ教えていたのでは、教師が彼ら自身の威厳を維持できないから、人生や、個性について語りたがるのだろうか。たぶんそうだろうな。

「学校の成績だけで、人間性は計れない。」というアンチ偏差値教育キャッチコピーが流布して、逆に教師たちは必死にならざるを得ない。教師自身、知識の多寡以外で自分達が生徒より優っている保障はどこにもないということを知っているからこそ、執拗に人生についての教義を説く。
そう考えると、金八先生という番組は、教師生徒間の主従関係をよりいっそう強固なものにするためのプロパガンダなのではなかろうか…。ブツブツ

なんてことを考えていると夕飯どきになったので、簡易中華丼を作る。
茄子、葱を豚肉と炒めて、醤油、砂糖で味付けする。水で溶かした片栗粉をかける。美味い。

夜中こそこそと「幸せのレシピ」を観る。思ったよりもいい映画で、鑑賞後、また腹が減って冷蔵庫の中のアボカドとパプリカを使って、スパゲッティを作る。にんにく、ツナ、唐辛子を炒めて、アボカドと和える。美味い!


近所の蕎麦屋さんは、恐ろしく美味い。とくに五目蕎麦がやたらと美味い。五目と銘打っているのに、12品目入っているんだな、コレが。(舞茸、エノキ、ほうれん草、海苔、豆腐、玉子焼き、ゆで卵、かまぼこ、おふ、長ネギ、豚肉、海老)
こんな品目の豊富な五目蕎麦を、ぼくはここ以外で寡聞にして存じません。ご馳走さまです。

矢野顕子の歌う「すばらしい日々」を聴きながら、安岡章太郎をちらちら読みつつ眠る。


さて、コイツ食ってばっかりだと思うでしょうが、来月、再来月とライヴが二本ずつあります。アルバムももうすぐ完成します。
うーむ、しかし今月は食って呑んでばかりで、腰が重い。
現美の川俣正も面白そうだし、国立新美のArtist File 2008も、なにげに見ておきたい、でも腰が重い。

ところで、綾瀬はるかと、桜塚やっくんと、フレディーマーキュリーって似てませんか?







友人の結婚式に出席。
とても気持ちの良い、心のこもった式だった。
進行役を務めるおねぃさんも、仁王のごとく佇立した御父さん×2も、煙草をぷかぷかふかしながら野次を飛ばす気のいい友人たちも、一様に笑顔だった。

式には諸種のグループが参加していた。
様々な境涯の方(たとえばわたしのような無芸無職の人)が列席され、
様々な気風の方(たとえばわたしのような少年アナーキーな人)が参会され、
様々な性癖の方(たとえばわたしのようなウエストフェチな人)が来臨された。
わたしがもし結婚式をあげたなら(あげないけど。)出席してくださる方は、無芸無職でウエストフェチの少年アナーキーだけであろう。

肌合いの異なる方々が一堂に会し、幸福でいられるのは、ひとえに新郎の人柄によるものだ。わたしじゃこうはいかない。同輩との再会(10年ぶり!)も含め、素敵な時間だった。 ハッピー。
(それにしてもぼくらは今年で28だ。ということを実感する。一方は結婚し、他方(式場では約2名)は、のほほんとソノヒグラシをしている。まさに酔生夢死である。いや結婚以前に、生業を確立することが喫緊の問題ですが。)


父と父の友人たちの還暦を祝う。彼らこそまさに少年アナーキー。おめでとうございます。


ARICAプロデュース、首くくり栲象の公演を観に行く。
最近観たパフォーマンスのなかでも、群を抜いて素晴らしかった。『首くくり栲象』は、97年から現在に至るまで、日々自宅の庭の椿の木で首を吊り続けるというある意味反モラル的な行為を10年以上刻んでいる奇人なんだけど、それがあまりにピュアで生死のテーマを微塵も感じない洗練されたものだった。哀しくて、それでいてポップな空間が肌に滲んだ。土方巽も、首くくり栲象のような深淵な精神世界を反コンセプチュアルに表現した人だったのかもしれないなと、無根拠に思った。

そういえば最近バットシェバも観た。良い意味でも悪い意味でも、完成された公演だった。純度の高いダンスだったと思う。まぁ、ローザスの『Desh』のほうが良かったな。たぶん。

ダンスを観るのは素敵なことだ。みんな最終的には映画を作りたいというけれど、ぼくはダンスの舞台が作りたい。(首くくり栲象も『ダンス』にカテゴライズしてしまったけれど、ダンスなのかね。)
Wikipediaによると、「ダンス(dance)とは、感情や意思の伝達、表現、交流などを目的とした、一定の時間と空間内に展開されるリズミカルな身体動作。」だそうだ。なるほど、反論の余地なし。


『Beautiful mind』を観る。毎度のことながら号泣する。
プロットというか、フレームが『善き人のためのソナタ』に似ている気がした。
統合失調症に罹い、幻覚を信じ込んだ主人公に、医者が「そう考える頭が病んでいるんだ。」と言い放つ場面がある。自分の確信に満ちた考えや、目に見えている風景が、もしかしたら正しくないかもしれないと、自らの真偽判定を傾斜させることは、ぼくたち健常者にとっても、恐ろしく困難なことだ。それでも主人公の数学者は、妄想を隣人として認め、人生の軌道を修復してゆく。
そう考えると、僕たちは皆、多かれ少なかれ病んでいるのかもしれない。虚像にしがみつきながら、現実とその際で、絶えず思考し吟味しているのかもしれない。


『潜水服が蝶の夢を見る』を観る。
それにしても、映画料金が1800円もするというのはいかがなものか。学生や貧乏人は映画を観るなと言っているようなものである。同様に、リハーサルスタジオやパフォーマンス等の稽古場も高すぎる!そんなに高くするなら、料金表に「芸術活動はなるべく控えて、まともな仕事に謹んで頂きたい。」と注釈するべきである。

閑話休題

『潜水服が蝶の夢を見る』は凡庸な映画だったけれど、当映画で描かれる迫真のコミュニケーションはとても音楽的だった。瞬きを使ってアルファベットを選び取り文章を紡ぐ行為は、まさに12音のブロックから一つを選び、音と沈黙で組み立てる作業そのものである。 (武満徹はとてもデザイン的に作曲する人だったに違いない。)

渋谷のブックファーストが見当たらないので、紀伊国屋へ。
新書コーナーで養老孟司と柴田元幸などを買う。
なぜ新書の平積みは「ダメな女」や「なぜ人を殺してはいけないのか」や「イチローは天才ではない」などが幅を効かせているのだろうか。ダメな女に描かれるダメな女や、人を殺すような精神状態の人間や、イチローを天才だと思っている人は新書の啓蒙本など読まない。ダメな女を睥睨し、人を殺す人間を差別し、努力することそのものが能力だという認識のない方々が、ついにそのような本を読んでカタルシスを得るのである。

車内で、養老孟司の「無思想の発見」を読んでいて、目が覚める一節を見つける。
―「男女を対立概念と思うから極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じようにウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。

実に音楽的なセンテンスですね。まさに音と沈黙を合わせて音楽なんですね。武満先生。 フォームとカウンターフォーム。実にデザイン的でダンス的だ。いや、世界が音楽的でデザイン的でダンス的なのではなくて、もともと世界は音楽とデザインとダンスで出来ているのかもしれないな。そうに違いない。
思想からデザインへ、世界から音楽へ。ぼくらは軽やかにステップを踏み続け呼吸している。

帰宅後、白ワインを開ける。(友人の美容院の5周年記念で頂いた。)
アンチョビーと長ネギをとろ火で炒め、キャベツとじゃがいもを入れて塩胡椒で味付けしたものを肴に、ごくごく飲む。ハッピー。


バレンタインデイ。
PRONTと下北のKATE CAFFEの店員さんにコンビニで売っている30円ぐらいのチョコレートを頂く。「ありがとう、お礼をしたいから電話番号教えてくれる?」とはまさか言えずに、きらきらの笑顔だけ会計と一緒に支払う。弟のような節度のない真似はぼくにはできないよ。 でも女の子たちはいつだって魅力的だ。


木村かをりのピアノを聴きに行く。演目はメシアンの初期から後期の楽曲を選別したもの。

□ステンドグラスと鳥たち
□天の都の色彩
□七つの俳諧
□天より来たる都
□鳥たちの目覚め

など、鳥を題材にした作品を中心に聴かせて頂く。メシアンは山林に出掛けていって、あらゆる鳥の声を採譜したそうだ。鳥のさえずりが粒となって降ってくる。丸い空が見える。ドビュッシーは二次元な絵画を描くけれど、メシアンは多次元的な音を降らせる。木村かをりはくっきりと輪郭のあるピアノを弾いた。閉演後、「あぁ、そうか。なるほど。そういうアプローチもアリだよね。」とニヤけて、作曲したい熱がアクティブとなる。ハッピー。


8歳のとき描いた絵を発見する。なんて素晴らしいんだ。
8歳までは、こんな鋭利な感性が備わっていたのに、きれいさっぱり払拭されてしまった。凡俗な中学生が似顔絵を描くとき、皮膚の色をそろって異様な肌色に塗りつぶすのと同じように、ぼくらの感覚は、認識(イデア?)が蓄積されると同時に、どんどんリアリティーを失ってゆく。
退嬰的な少年がリアルな世界を再び見つけるのはいつになるのか。アンハッピー。


彼女(猫♀)の生活習慣は劣悪だ。
好きな時間に起きて、腹がすけば飯を喰らい、昼寝をする。友人と気ままに歓談し、使い勝手の悪そうな丸い手で顔を洗う。(ちなみに今はぼくの膝の上で「痒いんだけど?喉がよ?」と甘えるフリをしている。)
けれども、彼女にもひとつだけ、切要な日課がある。一日の決まった時間に、部屋の隅から隅をくまなく点検するのだ。彼女は失われた記憶を探している。(に違いない。)鼻をくんくんさせて、ニャムニャムと呪文を唱えながら神妙な顔つきで、錯綜したこの世界から古来の記憶を取り出そうとしている。彼らはそういうイキモノである。 ご苦労様です。マッサージしてあげましょうか。 でもタキタニ、頼むから扉は開けたら閉めてくれ。隙間風が寒いんだよ。
そういえば、最近タキタニがホーミーを覚えました。最近の泣き声は倍音が含まれているんです。いやマジで。 「にゃわわわわぁぁあぁ゛ー!わぉぉ゛ーん!」って、犬かよ。

今月はなかなかフットワークの良い月であった。






ライヴが続きます。

ステージでは、程度の差こそあれ、様々な理由でパフォーマンスが変化する。室内の空調や、楽器の質、ライヴの時間帯などが起因して、身体は開放され、また抑制される。(先日のライヴの鍵盤は、決して良質とは言えないものだった。)

多くの人は、仕事の現場やステージで「自分を最大限に生かせる場」を要求するけれど、それはたぶん、彼らが思う「理想的な好環境」ではない。人が持っている能力以上のものを絞り出しているとき、彼らはどこかで規制されているはずである。「こんな環境で、こんな条件だけど、まぁ頑張ってね。」と言われたときに初めて、知性はアクティブになるし、「仕方ないな…」と思いつつも、身体の底のほうに残っている才知を駆使して、今までに抽出していなかった能力を発揮するのである。

ぼくのような凡庸な音楽家はとくに、条件付けされたときのほうが、自由気ままなときよりも上手に立ち回ることができる。 縛られているほうが円滑洒脱の身よりも想像力は涼やかに起動している。ということに最近気付いた。(そんなこともわからないようだから、いつまでたっても凡庸なんだよ。)
作曲においても同じである。はじめに「4分の3拍子で、C-durで始まって、A-mollで終わる32小節の曲を作りなさい」と言われたほうが、「なんでもいいから明るい曲つくって」と言われるよりもはるかに「自由自在」なのである。
考えてみたらあたりまえだよな。
天井のある室内では、おもいきりジャンプできるけれど、空に向って全力で飛び上がるのは、何か心もとないし、高く跳べた気がしないもの。

そんなわけで、先日のライヴは大成功であった。
歌は軽やかに弾み、鍵盤と打楽器には、深遠なコレスポンダンスが生まれた。(ただし、PAの方が優秀であることが前提である。ありがたや。) このくだり、何が言いたいのかといえば、「ステージが俺ら的じゃないね。ぷい。」というような稚拙な言い訳は通用しないということである。



最近個性について思うところがあったので、少し。
簡単にいってしまうと、個性的であろうとする振る舞いが自分の首を絞めているということです。(というかぼく自身、そうであった。)「人と違う」ことへの希求は、秩序からの脱却を通して成しうるものではない。真逆である。先述したように個性というものは条件を課したときに、より顕著になる。(たぶん。) というより、目を凝らさなければ見分けのつかないような条件下では、個性は何もしなくても際立つものだ。

ブティック街を歩けばよくわかる。 人との差異化を図ろうと、ブランド品に身を包んだ女の子たちは、 ごく自然に、「わたしはあなたと違うのよ」的グループに"カテゴライズ"されている。真に個性的な女の子は、「人と差異をつける」ために洋服なりバッグなりを選ばない。真に個性的ではない女の子が、「差別化(あるいは個性化)を図ろうと」して、想像力を磨耗しているのである。
彼女たちはマイノリティーとしての主張を掲げているのではなく、(もちろん個性的でありたいと盲信しつつ)「マイノリティーではない人々(要するにヴィトンのバッグを持てない人々)がいること」を強く望んでいるのである。なんと後ろ向きな祈りであろうか。

個性的でありたいという"祈り"は、「どうあっても個性的になれない人」がいて、はじめて成就する願望である。「どうあっても個性的になれない人」など、そもそも生物学的にありえないから、個性的という神話は不毛である。 個性への偏執というのは、たとえば成功を求める人が、無意識下で、「どんな努力をしても結実せず、どんな訓練も報われない人が出来るだけ多くいてくれ!」と切望することに似ている。
また、知への追求を惜しまず「馬鹿」を睥睨する姿勢が、実は「馬鹿」の存在価値を認め、彼らを含めたヒエラルキーを財貨のごとく死守しようとしていることと同型である。 個性的であろうする"祈り"というのは、自分以外の人々を常に意識して観察し、彼らの身振りをチェックして、研究することに他ならないのである。

また、著作権というのも同じ思想だ。
"個性が自分の内から滲み出たものだと信じて止まない人々"が往々にして個性性を主張し、コピーライトを死守しようとするのである。 「これは俺にしかできない。俺と同じことをするやつは徹底的に排除する。」

個性とは人の色などではない。並べられた多種多様な色鉛筆から、 いざという時に(ある条件下で)その場に適合した色鉛筆を選びとる能力を個性と呼ぶのである。ヽ(^。^)ノ


というようなことを自分に言いたい。一年ほど前に、ぼくが友人に個性性の重要性を説いたとき、「今まではそうだけどね、21世紀は身体の時代になると思う。」と言われた。当時、ぼくはその意味することがうまく掴めなかった。そして一年経ち、ようやく「身体」の個性性に気付いた。 そうなんです。人との比較が個性ではなく、というか人は生まれながらに個性的な身体を持っているわけで、改めて個性を主張することもないわけなんですね。個性的でありたいと思うのであれば、自分の身体をくまなく点検すれば良いわけです。 その運用方法に、個性が隠されているのです。
おしまい。

この暴論コラム?は、某内田氏(またかよ)のブログのテキストからインスパイアされたものです。最後までドライブ感のあるテキストなので興味があれば読んでみてください。

http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php






遅ればせながら、明けましておめでとうございます。


クリスマスやらお正月やら、特別に好きでもないけれど、
それぞれの季節を確認する作業は重要だと思う。
一年を短いスパンで分割すればするほど、
効率よく物事をこなせるし、明確なニッチを持つことができる。
(と思う。)

今冬は、ヤキイモを作り、風呂に柚を入れ、祖母の誕生日を祝い、密かにサンタが来た。大晦日は川崎大師に行った。
元旦は実家のおせち料理に舌鼓を打ち、天皇杯を見た。
「年賀状?んなもん社交辞令だろ?ケ」と豪語していた彼は、彼宛に届いていた数枚の年賀状を手に取り、破顔一笑ともいえる表情を浮かべた。(彼は一通も出していない。)
近日中に手作り凧を作って凧揚げをする予定です。


大掃除。
「誰かやってくれねーかな…」と毎分2000回ぐらい呟きながら
お風呂のタイルなどを磨く。
ぼくの敬愛する内田樹氏は
「家事をアウトソーシングする人間をわたしは信用しない」的なことを豪語している。
なので、渋々磨く。

08年、二日目。
早々と作曲したい魂がアクティブになる。でも眠いので、半日は猫とごろごろする。タキタニ(♀猫)と七並べとか、福笑いとかする。

08年、五日目。
お祭り気分もやや矮小化したので、いっそう仕事に励む。
古橋悌二のmemorandumを読んで、幸せが喚起してモチベーションとなる。
新作レコードの曲が3曲まで終わる。しかし眠い。


今年は勉強がしたい。
音楽をやっていると、自然に世界の物事を音楽世界のフィールドに引っ張り込んで、無理矢理解釈しようとしがちである。音楽を糸口にして、他の分野について思考するというのは、それはそれでおもしろいし、重要なアプローチではあるのだけど、同じ世界にコミットし続けるのは大変危険な状態であろうと思う。すでに知っている世界を主題的に勘案するのは、楽ではあるけれど、アバンギャルドではない。
音楽みたいな嗜好性の強いあいま~いなことをやっていると、是非がうやむやになり、旧態依然の日々が続きかねない。

--引用

すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。
その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。
若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、というしかたで、私たちは少しずる成長してゆく。

引用終わり--

さて、どこに行こうかな。


友人の御成婚が相次いだ。(相次ぐ。)
「なぜ、みんな結婚するんだ?考えられん!プンプン」などと
古い友人と電話で、ややパセティックに嘆く。
現状の1割程度、自分への興味が薄れたら、結婚などと考えてもいいかもしれない。今はまだ、自意識と無知がべったりと体中に張り付いているので無理です。


「タキタニ、おまえも映画観るか?」
「にゃー」
「そうか、じゃあ、一緒に観よう」

彼女との、この腹話術的コミュニケーションが、ぼくの生活において唯一、会話能力を涵養する機会である。
人は往々にして、野菜や、車や、バットや、灰皿や、小銭やらとピア・カウンセリングを行う。そうやって、ぼくらは暮らしにリズムと色彩を持たせる。
などと書いていると、「さみしーにゃー、あんた。」と言われた。


先月は、歩かなかったし、何も見なかった。
いやな気分だ。まぁいいや、
書きたいことはまだ山ほどあるけれど、
年始だし、これぐらいにしておくか。