塑性の君たち
青山と渋谷のライヴが終わりました。さて再び、アレンジにとりかかろう。
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渋谷公園通りクラシックスのPsalmイベントは良かった。
Psalm、細谷季子、両君ともに純度の高い良いパフォーマンスで
会場は暖かく、そして親密な時間が流れた。
ぼくらの前に歌った細谷さんの歌は弾力があって、濁った水のなかを泳ぐ、澄んだ魚の眼をした歌い手だった。人は元来矛盾した存在だけれど、その矛盾を表現する人は稀である。(矛盾なんか認めたくないんだから。)
彼女のお陰で、ぼくらは心地よく演奏することができた。
Psalmのステージは本当になめらかで、円転滑脱に進行する、完成度のとっても高いものだ。
うーん、明確なイメージが浮かぶよ。高揚する静けさも、唸る沈黙も。学ぶべきことの多い二人。
そして、深い敬意を感じずにはいられない。
慈悲喜捨たる、Psalmのおふたり、細谷さん、お客さん、あとNGATARIメンバーズ、愉悦の時間をありがとう。
前日、ボーカル・Jessicaの声が出ないというアクシデントがあったのだけれど、それが良かった。奏功したといってもいいぐらいだ。抑制され、条件を課せられた状態のときにおいてのみ、進化の芽はアクティブなものとなる。というようなことをつらつら書こうと思ったけれど、このネタ前に書いたな。というわけで割愛。
http://www.ngatari.com/blog/2008/01/post_2.html
(でも、ほんとうにやる気なくしてたんですぼく。直前までは。)
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夜もふけて、テレビの前でぼんやりしていると、セイフティーネットの破綻、社会保障制度の没落をかなりネガティブに報じている番組がやっていた。企業の正規雇用削減のためにリストラ、または辞めた人々が、従来の(終身的に確約されていたはずの)保険を受けられずに、病気になっても治療を受けられないということを淡々と諦めたように報道する番組だった。
いったいこの番組のTVディレクターは誰に何を訴えているのだろうか。他責的な切り口なのだけど、
どの方面にベクトルが向いているのかがわからない。政府だろうか、経営者だろうか。その両方だろうか・・・。
確か以前、小泉元首相が「多少の痛みは我慢してくれよ。未来のこと考えてさ。」という言い方で構造改革をはじめたような気がする。(だいぶ言い方は違ったけれど、ようはそんな感じだった気がする。気がするだけかも。)
別に、痛みの多寡にケチをつけているわけでは全然なくて、お知らせしておくべきだったんじゃないの?と思うのです。また、「未来のことを考えて」というセンテンスを身体的に感知させることは不可能であるから(だって、地獄のような未来なんて誰も想像したくないし)
小泉さんは「多少の痛みの代償として、おまえらの子供・孫世代が幸せになるかもしれません。よろしく!」とアナウンスし、かつ、プロレタリアたちに向けて「構造改革によって、フツーに病気になったり、治療を断念したりしなくちゃなんない場合でてくると思うけど、我慢してね。」という留意をするべきだったんですね。だからこんな不幸な番組を夜中の1時に垂れ流すはめになるんです。
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そうそう、イメージをね、確立しなさいと言われたんです。友人にね。
ガタリの致命的なところは、確固としたイメージが持てないところだというんですね。
ぞっとしましたよ。ぼくは。愚かにも「良い音楽さえ作っていれば」と確固たる指針を逡巡していた自分に、はと気付いた。音楽が記号的に扱われることの是非はよくわからないけれど、イメージを作っていく、共通したイメージをメンバー全員が持つということは、何よりもプライオリティーの高いことだというあったりまえのことをおざなりにしていたわけです。
で、何故ぼくがぞっとしたかというと、以前書いたように、情緒的でメランコリックな曲を書いているわりにそれらは全然書きたいものではないということ、その乖離感を心地よく享受していること、そのことが「イメージわかねぇ」的問題の根本理由だと思ったから。
何が言いたいかわからない、色彩に乏しい、曲と歌が相容れない、などなど・・・。
この原因は作曲にあるのかもしれない。
さぁ、どうしよう。
(キーワードは『雨』、NGATARI HPのトップ見て気付く。雨が降ってはじめて姿を現す、風景がある。形があるのではなくて、形を作る余白、音楽が鳴ってはじめて気付く、沈黙。闇があってはじめて気付く、光。)
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備忘録
・ヴォルフガング・ティルマンス展。
・横尾忠則展。
・モディリアーニ展。














