ソシュール、Suara sana、あるいは練習



ぐっすり眠る。
お昼、ライブのお客さんに頂いた、「手のべ半生うどん」というのをこそこそと茹でて食べる。美味い。うどんと赤ワインって合うよね、ほんと。


円盤でのイベント「ウィリ山ウンテン」に参加させて頂きました。
Suara Sanaのヴォイス・パフォーマーである徳久ウィリアムさんに誘っていただいた。

Suara Sanaはガムラン、口琴、ホーメイ、ガタムなどの奏者で編成されたバンド。近年、ガムランや民族音楽とカテゴライズされる音楽ユニットは辟易するほど流行っているけれどそのような人々とは一線を画すグループだった。

彼らの音楽を聴いて、ぼくはソシュールの「ラング」という言葉を思い出した。
(「ラング/ランガージュぐらい知ってるわ、バカにすんな」という方は読み飛ばしてください。)
「ラング」とは、言葉によって、本来『切れ目』の入っていない世界に『切れ目』を入れて、その切り分け方を共同体のなかで共有してゆく言語活動のこと、要するにぼくらにとっての「日本語」である。
ソシュールは、「思考回路というのは、星雲のようなものだ。」と言った。事物の名前というのは、人間の恣意的な『切り分け』によって決定され、その後はじめてそれらは人間の目に見える形で姿を現し認識に至るという。そんなことあるわけないと思うでしょ?でもそうなんですよ。(ソシュール曰く。)
たとえば、仏語では、「papillon」は「蝶」と「蛾」の両方を含む概念であるけれど、日本語は違う。「蝶」といえば美しく舞う艶やかな昆虫を指すが、「蛾」を美しいと定義する人は日本語話者のなかにはあまりいない。要するに、フランス語話者にとって、「蛾」という生物は存在しないということになる。同じように英語の「Tree」と「Wood」を合わせて、日本語にとっての「樹」であるし、日本語の「肩が凝る」という言葉は英語には翻訳不可能である。英語話者にとって「Treeで作られた建築物」という言い回しは"できない"し、彼らはいくら重労働をしても「肩が凝ら」ない。(不思議だなぁ。)また客観的対象と思われがちな「虹」ですら、日本語では七色と認識されるのに対し、英語では六色と数えられ、南アフリカのある地域の言語のなかには、二色として定義されている例もある。彼(ソシュール)は言語というものが、人々が満天の星空をみて、見る人それぞれが夜空に切れ目を入れて星々を繋ぎ、「くっきりと」そこに星座を見出すことと同じだと考えた。

(ソシュールに興味ある人は「ソシュールと言語学」町田健著などを読んでみてください。)

ただし、音には名前をつけることができない。音楽の優れたところは、(というか国境がナイと言われる所以は)そこにある。ドレミは名前だろと反論されるかもしれないけれど、それは、ソシュールの言うところの共同体や民族によって定着した「切り分け」なわけよ。(虹の例と同じ。)たとえば、"ド"に限りなく近い"シ"とか、噪音(倍音)には名前がない。インドのラーガに絶対音高はないし、鳥のさえずりは12音階では捉えることはできない。(アラブ音楽の音階?であるマカームは1/4音を定義したりするらしいが。)名前がつかないということは、言語圏によって限定された概念そのものがないということだ。世界的信認を獲得できる音楽というのは名前がつくことがない。誰もがそこにあると知っているけれど、すくいとって見せられるまでその存在に気付かない音たち。そのような音を操ることのできる音楽家だけが、世界のどこからでも仰望できる(言語や民族を超えた)星座を描くのだと思う。(ということは、音の認識の場合、『音⇒命名』ということになりますよね。)

話がそれました。

Suara sanaは凄い。
彼らは手を使い、あるいは喉を振動させて世界中で無数に漂っている音たちに『切れ目』を入れていくように音楽を奏でる。次々と生み出される音の洪水は、夜空に独創的な風景を描いていたし、また美しい物語であった。それは誤字も脱字も存在する生まれたばかりの言語である。彼らの音楽が楽しくて、鋭利でまた、誰にでもその美しさが体感できるのは、聴き手にも奏者にとってもそれが手垢のついていない、できたてほやほやの音楽(星座)だからだと思う。生まれたばかりの音楽(インプロビゼーションという意味ではなくて)というのは、聴き手のものである。聴き手ひとりひとりがそこに物語を感じて、唱和できる音楽というのは、おそらくその音が聴き手にとって唯一無二のオリジナルだからだ。Suara Sanaは、奏者と聴き手だけに共有される親密な音楽(星座)を作り出すことのできる素晴らしいな音楽集団だった。
(レビューみたくなってるが…。)

といっても、誰もがそのような芸当を持てるわけではない。
「内からふつふつ沸くインスピレーションを表現する手段」という言い方で音楽を捉える人がよくいるが、これは大きな誤りである。音は人間の中に存在しないんだから。自分の持つ「音」を表現するのではなく、世界に散在する音たちに次々と『切れ目』をいれ、形作ることが、予測不能で素敵な音楽を産むのである。とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃうのが真のアーティストであり、イライラしながら自分の中の良い音を探そうとして、「こんなダサい音で良い音楽なんてできねーよ!!」と逆ギレするのが、凡庸な音楽家(ぼくとか)である。残念ながらそのような力業では良い音楽は作れない。(と知っていてもキレ続けているけど。)
また「とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃう」能力というのは、「世界中で無数に漂っている音を選び取る」という技術に裏打ちされている。「とりあえず道端に散らかっている音粒で表現しちゃう」人というのは、人知れずトレーニングを繰り返し、鍛錬を積んだ(よーするに練習に励んだ)人にのみできる奇跡的なパフォーマンスなのかもしれない。

というようなことをぶつぶつ考えながら、円盤に出張していたコジョウさんの美味しいカレーを食べた。
同じようなことを考えていたのか、ライブハウスを出たあと即座に、我らがボーカリスト・Jessicaがぼくにこう言った。「もっと練習してください。飽くなき反復のなかにだけある、ふと浮かび上がる奇跡的な音って、あるんだよ。」

とっても楽しいイベントでした。
ウイリアムさん、Suara sanaの皆様ありがとうございました!
http://suarasana.com
http://william.air-nifty.com


引越のため、ピアノ運送屋さんにピアノ運搬のための見積もりをお願いする。引越自体にかかる経費をはるかに越えた金額であった。じゃぁ、もう自分でひきずっていくよ。


タキタニ、帰宅すると安心したのか、爆睡。


次回は瀟洒なホテル、CLASKAでのライブ。
楽しみです。
http://www.claska.com
http://www.claska.com/blog/2008/07/725fri_ngatari.html


   
2008年7月12日  |  Category :