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「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。
洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。
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日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。
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最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。
「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。
大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)
ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。
救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)















