ngatari ガタリ
Art Work by Hana Akiyama
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「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。
洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。



日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。



最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。


「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。


大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)


ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。


救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)






こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。


なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。


それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
(モーリス・ブランジョ『終わりなき対話』)


譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)


あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。



昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。

国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。






なんか気持ち悪くないですか?選挙。
ぼくは、メディアにも、為政者にも、手のひらを返したようにさらっと政権をひっくり返しちゃう国民にも怒りを禁じ得ない。まぁ、しっかりぼくも国民だけどさ。


TBSの投票結果ライブ中継の画面の上のほうに、
『選挙への感想』みたいなメールを紹介していたけれど、
『自公は猛省を!』とか、『この結果が国民の麻生さんへの意見だと思います。』とか
『圧勝に驚いています。民主党を応援しています。』など、
おまえらついこのあいだまで、小泉政権支持してたじゃん。どういうことよ、この君子豹変的な身振りは。


季節風のように、あっさり風向きの変わる民意の構造を誰か説明してくれ。
自民党と民主党の政策的オプションの違いやら、マニフェストやらの違いなんて
五十歩百歩だろう。どっちにしろドラスティックな変化なんてないんだから。

中川昭一の「飲酒問題」とか、麻生太郎の「失言」だけが、失態の理由なんスか?
それともちんけなマニフェストが気になるのか?
やっぱりどうでもいいんだろう、ボスが誰かなんて。


たとえば、どちらかの政党が政権を握っているせいで、酷く虐げられていると思っている人、
家族が貧窮状態だったり、傘が盗まれたり、女の子にフラれたり、鼻炎が治らない、などの遠因が、現在の為政者にあると思っている人、


それは、あなた自身に問題があるのよ。


リストラの対象になったのも、あなたの能力に問題があったのだし、
SUICAのチャージの減りが速いのも、あなたの行動範囲が広すぎるせいだし、
「歩合」を「フゴウ」と平然と読んで失笑されたのも、あなたの知性の不調が原因だ。


人は、「自分の不幸は、当の彼が招いたものであって、その原因さえ取り除けば、自分の幸福は担保される」と妄信している。
(ぼくもケッコウ思っている。)


この選挙結果は、与党に落ち度があったからではなく、
この黒く渦巻くような国民の「他責感」がもたらしたように思えて仕方がない。
暴論か?あながちそうではない気がするけど。







まず、
9/11 LIQUID ROOMにて
オールナイトのイベントに参加致します。
みんなで遊びに来てください。サタデーナイトだし。
0:00からです。
http://www.realtokyo.co.jp/events/view/28840


8/15のイベントだとか、9/11のライブだとか、何やら政治的主張をしてるミュージシャンみたいだけど、とくに何の意味もありません。まぐれです。

ぼくは政治的には極めてニュートラル、また怠惰な人間であろうと思っているので、
来る選挙だって行かないし、靖国神社参拝についても定見は持っていないし、
もちろん支持政党だってなくて、支持猫種さえない。いやそれはある。
どれだけ選挙カーが耳障りで鬱陶しくても、拡声器をひったくって、宣伝車のタイヤをパンクさせ
候補者を蹴り殺すようなことはしない。たぶん。


明確な立場というものが、きっぱり何かに与することが、人を傷つけて憎むことと、密接に、ほとんど双生児のようにリンクすることなのだと、長い歴史とささやかな経験に教えられた。あと猫に。

まぁそういうわけで、9/11だからって、イベント会場で
星条旗を掲揚したり、あるいは燃やしたりなんてしません。
たぶん。



「悲しき熱帯」を読み始める。
ほとんど苦役に近い、この読書。
人間の身体は、「自分の知らない」ことに、異常なまでの拒否反応を示す。
「知らないことは知らないままでいいだろ?べつに、死ぬわけじゃないし。」
と、身体のヤツは、細胞を総動員させて、脳みそに苦情を申し立てる。
人間の身体は、何をもってしても、「新しい価値観」を受け付けることはないのだ。
観念的には。たぶん。


それでは、旧態依然のアタマを次のステップに移行させるにはどうしたらいいか。
これはもう、身体がその"現在の考え方"に「飽きる」(fed up!)のを待つしかない。
「もうこのフレームワークでは、フレッシュな創造も、他者との共感もありえない」と感じたとき
はじめて人は、古びた視線や、色褪せた世界に気付いて、未開の世界を探し始めるのである。
(猿だね。)


無知からの脱却は、知識の入れ替えがそれを成就させるのではない。
飽きの飽くなき反復だけが、人を成長させ、身体の強度を高めてゆく。


「形稽古」とか、「計算ドリル」とか、「ツェルニー」が重要なのは
それが一番手っ取り早く、身体を倦ませ、次の段階に脳みそを促すからだ。


ゆるやかな知性の涵養などというものは、たぶん存在しない。
健全な身体は「無理矢理」「突然」ソレに「飽き」て、次の世界に適応してゆく。


まぁ、これは10年ぐらい飽きもせず、同じ本読んでは、感心してニヤけている自分への苦言なんだが。

・・・


閑話休題

「悲しき熱帯」を読んでいたんだ。

気付くと行間の渓谷を視線だけすべりすべって、
内容がぜんぜんアタマに入っていない。


だんだん腹が立ってきたので、猫に「読みますか・・・?」と、おそるおそる尋ねると
「いや、おれイワシ缶食っとく。」と、足早に立ち去った。
おまえには知識欲、いや、
世界の成り立ちや、自分が何者であるかを探求する意思はないのか。
ないんだろうな。いいよなくて。
ヘーゲルは動物が一人称を持たないことを看破したけれど、
こいつはほんとに向上心ゼロだな。
たまにそよ風の研究を熱心にしているけれど。
どーせフリだろう。



そういえば、
英語には「飽きる」に相当する語彙がないと思っていたけれど
"fed up"というらしい。(友人曰く)
辞書をひくと
〔興味を失う〕get [grow, become] tired [weary]((of)),lose interest ((in)); 〔十分過ぎて嫌になる〕have had (more than) enough ((of)),((文)) be satiated ((with)); 〔うんざりする〕((口)) be fed up ((with)),((口)) be sick ((of))


世界各国の言語すべてに合致する観念なんてものは、存在しないというのがよくわかる。
辞書をぺらぺらめくってるだけでは、他言語を持つ人々の価値体系などワカラナイということですね。とすると、"飽きる"という身体的な動詞を持たない人種も、もしかしたら存在するのだろうか。飽きない動物には、進化もない気がするけど。まぁいいか。



サッカー選手は本当に、機知と示唆に富んだ素晴らしい名言を残しています。


「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
ヨハン・クライフ

「ボール以外のモノを蹴ってはいけない」
大久保嘉人

「キャラメルコーンは大袋だけじゃなく、小袋にもピーナツを入れるべき」
中田英寿






出演者の方々、無償で音響を引き受けてくださったPAの方、
お盆真っ盛りにも関わらず、足を運んでくれたお客さん
どうもありがとうございました。


Muffinさん、大所帯の編成で、気持ちの良い音楽をありがとう。
ぼくは、カテゴライズするのは失礼かもしれないけれど、
ああいうアコ・トロニカ?が好きです。


盆ノ窪さん
張り詰めたスリーピースの、ぴりぴりした音像が、イベントに
アクセントをつけてくれました。
どうもありがとう。
でも、インプロだけどポップだったよ。格好よかった!


天国さん
いやー、さすがだった。
こんなにも、音楽を音楽たらしめるユニットは比類をみないよ。
抒情的でいて、排他的。
ポップだけど、厭世的。
パワフル、素晴らしい。


太田裕美さん
準備がお粗末で、非常に申し訳なかったけれど、
素敵な作品を提供してくださって、嬉しかったです。
曖昧なまま収拾される物語。好きですね。ああいうの。
次回作もとっても楽しみです。

今回の出演者さんのインフォメーションは下記から。
是非チェックしてみてください。
そしてライブ観に行ってください。


Muffin
http://sound.jp/muffin/
盆ノ窪
http://bonnokubo.hp.infoseek.co.jp
天国
http://tengoku.in/
太田裕美
http://web.me.com/ironica7



次回のライブは、8月24日(月)
下北沢440







第13回Van Cliburn国際ピアノコンクールで、
全盲のピアニスト、辻井伸行さんが優勝した。

記者会見で、インタビュアーが、
「もし眼が見えるようになったら何が見たいですか」
と辻井さんに質問をしていた。
なんて愚かなんだろうこのインタビュアーは。
あまりにグロテスクな風景だったので、テレビを粉々に破壊する。


豚インフルエンザに感染しました、
と触れ回ってるのに、世間はこの話題、もう飽きたみたいだ。
結局、この手のトピックの帰趨は、「みんなが、ゆるやかに飽きていって、いつのまにか、ぷっつり消えた(まだ存在するのに)」である。
小学生が「ブタフル」と略していた。
この言語感覚すごいよね。なんだよブタフルって。
でも、しょせんブタフルだったな。


島田伸介が「AVというものが子供達の想像力を奪った」と言っていた。
うむ、そうかもしれない。


最近、結婚式の司会者がおもしろい。
「今日の新郎新婦は美男美女で、充分アップにも耐えうるお顔をしていらっしゃるので、みなさん、どうぞ近くに寄ってお写真をお撮りください!」
おもしろい。


スーパーのレジに並んでいると、ぼくの前に立ちはだかっていたおばさんが、「あなたふたつだけなの?じゃあ先に済ませなさい」と
順番を譲ってくれた。
イタリアのスーパーでは真逆だった。
「ちょっと、あたし二つだけなんだから、先いいでしょ?どいて!」


・1Q84読了
・太陽@イッセー尾形
・スヤマカフェ 090627
スヤマカフェ







通学路を家まで疾走する小学生をよく見るんだけど、
なんで小学校の頃って、帰り道にトイレ行きたくなるんだろう?
そして、かなり極限状態だった。いつも。


晴れの日と雨の日が交互に続く。シーケンシャルに、加速しながら。
年取るとともに、良い天気の日が貴重に思えてくる。

距離とか、遺品とか、そういう言葉が好きだ。


たぶん、彼らは自分が生きていると思い込んでいるのだ。


村田志穂子さんのオイリュトミーの発表会を観にいったり、オワリカラのイベントに行ったりする。
オワリカラ、非常に良かった。かっこういい。
あ、今思い出した、ロスコいってねぇ。

備忘録:
現代美術館「池田亮司 +/- infinite between 0 and 1」
近代美術館「ヴィデオを待ちながら」
町田国際「ルオー回顧展」
など


スヤマカフェ vol.1

うつみかやさんが、ハッピーで、素敵な歌を披露。
Jessicaはミュージカルのカバーからセレクトして雄大に歌いあげ、
山岸直人さんの鋭利でカラフルな即興演奏が四方山話をすりぬける。
ゲスト、礼恩が美声を披露しつつ、あれよと深更に至る。
夜中に隣人のみはる氏がグリーンカレーを振舞う。ひどく美味い。
おかげで、ぼくが作った豚汁が影を潜める。
次回は、6月27日です。







ぼくは、二億年先に宇宙が消滅すると言われても、そんなことまったく、全然信用しない。
二日後のことにだってカイギテキなのに、暫定的な宇宙なんて想像の域を超えている。
人間は恒久的に生きるという(病的なまでの)前提があって、はじめてノーミソに行動プランを提案できる。すべては…、音楽も本も、人も、完全に時間に縛られているにも関わらず。

尺のない音楽とか、めくるページのない本とか、
無害化された存在とか、ツルゲーネフを読む高校生とか、ポップな新聞勧誘とか、
穴の空かない靴下とか、飽きない女の子とか、目測を誤る猫とか、狡知な植物とか、
現在を素通りする歴史とか、どこにも到着しないセックスとか、生前の哀悼とか、
響きも倍音もない、今、ここ、だけに留まるアンサンブルはどこにあるのだろうか。

憎しみも死別も、失恋も、ゆるやかなグラデーションを経て、ぷっつり消える。
それは時間の圧倒的な力がそうさせるのではなくて、
血の巡りや、星回りのようなものだと思う。

たとえば、春になると猫の毛が生え変わって、
いつも毛布を持ち歩いていたような身体が、新しくなるのと同じような、テクノな脱皮。

というようなことを、
最近、出産を控えた友達に会ったりして、考えてるわけです。
しかし、…こんなこと言うと、フェミニストたちは激昂するだろうけど、
誰がなんと言おうと、妊婦はグロテスクだよね。


それにしても、パンかライスかみたいな問いって、日本独自なのかな?


itunes storeより、お知らせ。
http://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewAlbum?id=311212754&s=143462






激務が続きます。そして徹夜を強いらている。
今日は15時間寝た。
さて、備忘日記。


フットサルの大会に参加。
東洋のバティストゥータという異名を持つぼくは、大会記録を更新するほどのゴールを量産し、
3000人を越す観客にきゃーきゃー言われる。
というのは前日見た夢で、試合中に爪が剥がれて、ひーひー言いながら9試合なんとかこなす。
ぼくらのチームに元イタリア代表がいたので、大会優勝。
筋肉痛で一週間動けず。


時間がないわりに、昨日は2時間近くタワレコで遊んでました。
最近音楽シーンとか、ジャンルにドラスティックな変化がないし、おもしろい音楽がないと思ってたけれど、 いつのまにかみんなおもしろいことやってるじゃないですか。
じわじわと変わっていたんだね。

ポストクラシカルなんて卑猥な冠がついていたけれど、
最近、ピアノ弾きがおもしろいよ。ペトルチアーニの弟子?らしいFranck Avitabileのトリオはリリカルで気前が良かったし、 Pian Orquestraというピアノを囲んだパフォーマンスもエキサイティングだった。
それにしても新宿のタワレコでは、何故いつもローザスが流れているんだろうか。
ローザスが流れているというか・・・、ライヒが。

http://www.youtube.com/watch?v=CF0Uz6YIfb8&feature=related


人のブログを読んでいて、そのテキストがそのブログの書き手の声で読まれているってことない?
フツーのこととして行ってるけれど、この脳内でその人の声を響かせる能力ってスゴイよね。
文字を音声として認識すること、プラス、記憶の音声ストックからジャストぴったり取り出してるってことでしょ。 声紋認識ってテクノロジーがあるけれど、音声を脳内リストに配架してるってトコがすごい。


近くの肉屋のコロッケがご機嫌に美味しい。毎日買ってます。


チューリップがすごく幼くみえるのは、色形のせい?それとも民謡のせいか? なんで幼児はそろってチューリップ描くんだ?描きやすいのか、それともGHQの教唆扇動か。







近美に「コラージュ展」を観に行く。
いつも思うけれど、コラージュはどこか清々しい。
頭のなかにある「他人」の意匠を切り貼りして、おおきな世界地図を作っていく行為は、
実に今的であるし、サンプリング行為それ自体、非常に優雅だ。
そもそも、創造は、無数の剽窃で成り立ってるんだけどさ。言わずもがな。
「鈴木崇」という人の写真が良かった。


昔から思っていたのだけれど、嘘を追及されるとき、つい「何が?(不機嫌そうに)」と反応してしまうのは何故でしょうか。不思議です。ぼくだけでしょうか?不思議です。


思うのだけれど、女の子と食事をするという行事は、男性の生活のなかで唯一、「パブリックになりうるプライベートな儀礼」だと思う。意味わかんないか?わかんないな。


詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
http://blog.tatsuru.com/2009/02/28_1013.php

■2.21@めぐろパーシモンホール

桃色クルドサック

その他の動画はこちら







猫の一日は大きくわけて四種類の行動から成り立っている。
ひとつひとつ写真つきで検証したいところだけど、紙数(じゃなくてバイト数)がもったいないので割愛。
箇条書きで記すことにします。わかると思います。

1.無反省に石になる
2.そよ風の研究
3.失われた記憶を探し回る
4.くしゃみに過剰反応

ところで、家猫は中間的な速さで家のなかをうろうろします。敵襲から逃げるために疾走するわけでもなく、のそのそと平原を闊歩するわけでもなく、彼らは、まるでスキップするように、あるいは子馬のように、かっぽかっぽと部屋のなかを闊っ、いや、散策するのです。
カワイイです。



平野啓一郎「決壊」を読む。続いて、「ウェブ人間論」を読み、「ウェブ進化論」を読む。
既得権益や大企業のロジックを根本から変えてゆくオープンソースの思想や、googleによる、世界を再編成しようとする挑戦は、痛快だし、ある種のカタルシスのようなものを感じたのだけれど、何か違和感を持ってしまう。なんだろう、この素直に頷けない原因は。
ただぼくがテクノロジーに畏怖の念を感じているだけだろうか。
あるいは、権威に対抗する権力にもまた反感を抱いているのだろうか。
よくわからない。
でもたとえば、アップルストア、mp3への移行は、「音楽にテクスチャーがない」ということを私たちに突きつけた。(レコードのジャケットはテクスチャーではないし、本の装丁が持つ時間を秘めた手触りでもない。タグだなあれは。)
でも、本当に音楽に手触りはないのだろうか。ただメディアが変容しただけなのだろうか、本当に?というような問いが、アップル社の人々にはない気がする。
曖昧にしか書きようがないのだけれど、理性的には肯定するけれど、感覚的に頷けない真因は、そのような「ちょっとまって、これでいいのか?本当に?」という自制がどこにも見当たらないからかもしれない。
ぼくは著作権なんて大嫌いだし、音楽も文章もプログラムコードもオープンソースとして無条件に世界に開放して、不特定多数の人々がアクセスできればいいと思うけれど、彼の(著者の)ネット至上主義的な「自分たちが正しい」という反証もない正義の姿勢には、なんとなく同意することができない。
まぁでも、世界はWeb.2.0によって、変わりつつある、ということは確かなようですけど。(「人間の頭のなかに入りきらない記憶の容量の大部分がネットの世界にある。」―頁177 ウェブ人間論)



ブクログという自分の本棚を作るサイトがある。
書架というのは、裸体を曝け出すようなものだと思うかもしれないけれど、他人の書架を見ても、その人がどういう人なのか全然わからなかった。
ブログなどで自己紹介の欄に「好きな食べ物」とか「フェイバリットミュージック」なんて項目があるけれど、いっそ、「嫌いな食べ物」とか「嫌悪する音楽」にしたほうがその人のヒトトナリを明快にするのではなかろうか。
「わたし、村上春樹好きなんですよ」と言われるよりも、「ぼく村上春樹は嫌いです。」という一言のほうが明示的な主張に見えませんか?



手付かずのハーモニー。
知のレイヤー。


最近「夢は何ですか?」と尋ねられて、しばらく考えた後に答えた内容が
二年前に同じ質問をされて回答した内容と真逆であった。
という事実に感動する。いやはや、ニュートラル。
(夢は何?という質問がこんなにぼくの周囲に溢れている事実も素敵だけれど。)


Beatlesを無反省に聴きまくる。
今更だけれど、Travisって、ABBEY ROADのHERE COMES THE SUNですよね。いいけど別に。


池田満寿夫「思考する魚」を古本屋でついに購入。
なんか読むのが億劫。


クッキーそれ自体よりクッキーの匂いのほうが素敵だと思う。
つくづく、そう思う。







ひと括りにしてすまないとは思うけれど、
ぼくは主婦がドーナツ屋さんでドーナツを注意深く吟味している姿が好きではない。
スーパーマーケットで、シンボリックな長ネギを携えて、じゃがいもを点検している主婦の様は好きなのだけれど。 何故だろう。ドーナツを選ぶ姿があるいはぼくにある種の無為を思わせるからかもしれない。 若い奥様たちが、「いいとも」を流しながら、ずるずるお茶を啜る光景を想像してしまうからかもしれない。 よくわからない。そういうのは偏見なんでしょうね。


昨日、ピアノの前で譜面をかりかり書いていて、消しゴムでいくつかの音符を消した直後のことだった。 「あ、この箇所消しちゃまずかったかな」と思った途端、左手の小指がCtrlを、中指がZのキーを探して宙を泳いだ。 がーん。 (WindowsOSのソフト全般において、「一つ前の工程に戻す」ためのショートカットキーが、Ctrl+Zなのです。)

良きにせよ悪しきにせよ、「やりなおす、には⇒左手を斜め前方に配置して小指と中指を運用する」というふうに脳みそが訓育されているということだ。自律的身体からの解放である。がーん。
そこには、自律的な意思決定はない。脳から身体へのトップダウン的指令が、中枢神経をすっとばして、直接指先に伝達されているのである。 それはたとえば、熱いものを触ったときに、とっさに耳に手を当ててしまうことと同じであるし、まさしく「非中枢的な身体」と言える。

―運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(・・・)「非中枢的な身体」とは決して速く動く身体のことではない。それは知覚情報を統括し統一的な指示を全身に発令するべき中枢を欠いた、「寸断された身体」「アナーキーな身体」である(内田樹著@私の身体は頭がいい)

こういうのを職業病とも言えるけれど、この徴候は重要であるように思う。脳から中枢神経(あるいは心)を中継してキーボードを叩く一連の動作の、「心」の部分を通過せずに、身体を応答させるという身体運用はスポーツの訓練においても当然取り入れられているし、楽器演奏においても、緊要な能力である。「とっさの判断」というのは、「めちゃ速い動き」ではなくて、「意志を介在させない動き」なのだろう。 これが、本当の意味での"ショートカット"かもしれない。
それにしても、「時間軸を遡って戻す」という動作が、違和感なく身体化されているというのは、よくよく考えるとまったくスゴイことだと思いませんか?

そう思うとブラインドタッチもすごいよな。頭に「こんにちは」というセンテンスが浮かぶ、たぶん口の筋肉もそれに伴って「こんにちは」と発語する準備をする、右手がKとOを探している間に、左手はWとAの上に置かれる。この同期作業は、母語を(あるいは、熟達した言語を)話す言語活動とほとんど変わらないんじゃないか?

つたない外国語を使おうとしたときに、頭のなかに"こんにちは"と浮かべてから、"Bonjour"と発音することがあるけれど、これは「こ、こ、こん、にち、・・・は」という感じでパソコンの画面を凝視しながら、人差し指だけでキーを叩いているオジサンの心身構造と似ている。 習熟した外国語話者が、ひととぶつかったとき、とっさに「Sorry」と口からでるのは、頭のなかの翻訳活動が省かれているからである。外国語に慣熟するには、言葉を理解するまえに発音するための心身的ストラクチャーをうまく起動させること(ようするに、はえーってことだけど)に他ならない。

文字をペンで書くための指令を出す脳内部位と、言語活動を処理する脳内部位とでは、まったく別であるのに対して、ブラインドタッチ(あるいはChatとか)と、言語活動を司る脳内部位とは、もしかしたら結構近かったりするんじゃないだろうか。(まったくの憶測ですけど・・・)
まぁ、ショートカットも、ブラインドタッチも、すげーよな、自前の手足みたいでさ、って話です。



最近、車内で本読もうとすると、気付くと視線が行間の渓谷をするりするりと滑り進んでしまい、ページは進んでるのに、頭んなかにぜんっぜん入ってこない。足跡も見えない。そういうことって、あるよね。年か?


カポーティの「夜の樹」という本を探しています。絶版らしいんだ。
誰か貸してください。
カポーティの小説って、「もういややー」ってぐらい精神的にだるい状態で読むと、なめらかに身体に染み渡る。そんで、想像力が加速するんだよ。ビートルズのようです。
(ビートルズが想像力を掻き立てることはないけど。)
「樹の下に誰かが、―なにかがいるわ!」草の竪琴

NADiffで、新国誠一の本をジャケ買い。(ぺらぺら読んだけど)
こういうコンセプチュアルで、けれど、意味性を徹底的に否定したようなものは好きだ。デザインだもんね彼の詩は。ダンス。 湯浅譲二と西村朗の本も購入。


20日、赤坂GRAFFITIでのライヴ。
To the southさんとのタイバン。完成度高し。
服部龍生さんのベース演奏、からだが楽しくなる。素敵。
またぜひ観たいと思うステージは本当に久し振りだ。
少しお話をして、良き薫陶を受ける。


BJORKの「The Dull Flame Of Desire」
Antony Hegartyの声がすごくいい。
http://jp.youtube.com/watch?v=BWV4N-ZcDJg






イナダやワラサがブリの幼魚だったなんて、はじめて知りました。
そういうことって、わりに知らないよね。
イナダもワラサも非常に美味しい魚だと思うけれど、ぼくはブリをあまり好きではない。
明けましておめでとうございます。

年末から体調を崩し、お正月は一歩も外へ出ることもなく寝込んでいました。布団のなかでツルゲーネフの「はつ恋」と手嶋龍一のウルトラダラーを交互に読んでみる。治らない。
「海を飛ぶ夢」を観たりする。
四日目を過ぎて、やっと快復し、ぼちぼちと家族や友人に新年のご挨拶をする。
ひどく遅れて初詣にも行った。
ぼくはひどく出不精、というか、余分な外出に時間を割くのが嫌いなのだけれど、季節モノの行事は大好きなので、雑踏にもまれようが、貴重な一日が潰れようが、一年に一度のイベントごとは、多いに堪能させていただく。人日の七草粥も好きだし、Thanksgiving Dayのターキーも好きである。両日とも何に感謝する日なのか知らないので、蒙昧な信仰ではあるけれど。

ただ、季節モノのイベントに意味性やイデオロギーを勘定に入れて是非を判断することもないんじゃないの、とぼくは思う。
もっぱら日本ってゆるい国だし。
クリスマスには華やかなイルミネーションの下を闊歩して、プレゼントを交換し、お正月はお雑煮を食べて賀詞を述べ、凧を引っ張りまわして バレンタインにはチョコレートを食いまくればいいのである。年間を通して宗教的理念がなく、かつ思想的にかなりアバウトな(というか無思想マインドな)この国は非常に住みやすいし、何より愉快じゃないですか。

文化的にも、宗教的にも、ここまでフレキシブルな国って、そうはないよ。とくに日本人のダイナミックな言語感覚は本当に凄まじい。
シュークリームは仏語の「chou シュー(キャベツの意)」と英語の「cream クリーム」の造語だし、プチトマトとか、パンチラとか、ドタキャンとか、満タンとか、フリーターとか、驚愕の言語的創作だと思いませんか。日本すごい。

というわけで、12月から1月にかけて、世間は行事盛りシーズンであるので、わりとうきうきして外出するのである。
セールもあるしね。

今年もよろしく。

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1月7日は新宿LOFTにてライヴがありました。

以下一月のスケジュール。

2009.1.13 / 下北沢440

奥村大, ガタリ, GONDA(GRIiP), ソルバルウズ
Open / 18:30
Start / 19:00
前売り / 2000yen
当日 / 2500yen (1order別)


2009.1.20 / 赤坂GRAFFITI

ガタリ, to the south, 服部龍生
Open / 19:00
Start / 19:30
前売り / 2000yen
当日 / 2300yen (1order別)


2009.1.27 / 新宿モーション

Wood Solid Dance Jam, ガタリ, 国吉亜耶子and西川真吾Duo, Radi
Open / 19:00
Start / 19:30
前売り / 2000yen
当日 / 2300yen (1order別)