ngatari ガタリ
Art Work by Hana Akiyama
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六本木アートナイトのイベントを終え、32回ぐらい電車乗り間違えて帰宅。
なんだか久し振りです。オールナイト。
非常に楽しかったです。
のべ300人近くの動員だったそうです。すごい。



夜中、美術館に入館できるのはとても素敵だったし、(展示はあまりおもしろくなかった。)
瀟洒で、またハイブリットな街の夜はなかなか楽しかった。
アートナイトのキャッチコピーは古橋悌二。ダムタイプの映像作品だけ人多すぎて観れず。
いらしてくださったみなさん、スタッフの方々、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。




上映には間に合わなかったけれど、映像作家の橋本さんにDVDを頂く。
これ、すごく良い。
知っていることを知らないまま収拾する、既知を未知に書き換えた物語だと思った。 楽しい。
さらに、25絃箏奏者かりんさんのライヴにも間に合わず、双子のピアニストのガーシュインを聴く。



ぼくは細いものが好きみたいだ。
むかしからジャコメッティは好きだったし、タイポグラフィもlightなものが好きだ。
Linotypeのユニバースとか、avenirとかほんと綺麗だと思う。
http://www.linotype.co.jp/fonts%20by%20inspiration/sans%20serif.html


むかし、京都の恵文社で針金で出来たしおりを見つけて買ったんだけど、なくしてしまった。
ああ、この作家、ジャコメッティみたいだなと思った。
関昌生さんという人のプロダクト。



でも、女の子はわりと肉付きが良いほうがいいんじゃないかと思う。
たぶん、線は女性性に背馳するのだろう。



ある劇団に客演としてJessicaが参加し、声を聴いた演出家の人が
「彼女の声を聴くと、映像がぽんと出現する、時計とか、ドアとか。」と言った。
そうなんだよ、すごく物質的なの。なんというか、声と、空気が倍音によって限定した形になる。彼女の声は。
そう、ぽんっという感じで。


これは努力でどうこうなるものじゃないし、ヴォイス・トレーニングによって涵養される歌唱力とも無関係の資質なのではないか。
(もちろん訓練による裏づけによって顕在化するものだとおもうけど。)
完全に生得的なもの、生まれつきの能力だと思う。
そういえば、玉井夕海さんも「声を聴いた瞬間、空気を一篇の映画にしてしまう」と評していた。
しかし、時計とかドアとか言い得て妙、完全に「不思議の国のアリス」である。


その演出家は、続けてこうも言っていた。
「Jessicaの声は、個だと思う。個、一、単一、空があったらその下で対になるもの、ひとつの凛としたモノ、そんな気がする。」
法外な賛嘆の言葉であるけれど、わりとその通りだと思う。


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その劇団の公演は、以下です。そのJessicaはシューマンのLiederkreis intermezzo歌います。
たぶん彼女の歌曲を聴けるのは最初で最後です。
ぼくも一曲書き下ろしました。

3/29,30
開座アトリエ公演
18:00~
Ticket 2,500yen


そして、ついに4月はリリースパーティー第一弾です。
詳細はこちら。






朝っぱらからテレビを見る。
最近、「盛り写メ」なるものが流行っているらしい。
何、盛り写メって。

「ギャル語で過剰に化粧をすること。ギャルに独特の化粧法が「顔に塗る」というより「顔に盛る」ようなイメージがあることから言われるもの。「アクセサリーを過剰に身につける」場合にも言われる。また最近では、さらに一般的に「過剰に演出する」ことについて「盛る」と表現する例が増えている。モリオ、盛り写、盛りプリなどのような複合語を作る場合もある。―新語辞典より」


「盛り写メ」
凄まじい言語感覚である。
「盛り」に含意される本来(本来というか、むかしの)の意味は、「勢いづいている」「絶好調」などのニュアンスだ。女子高生は、そのような古臭い語感にうんざりして、同じ概念を違った言葉で表現するようになった。(たぶん)
「盛り写メ」の「盛り」は「過剰に演出すること」を意味するらしい。
ぼくも「話を盛った」くらいの表現はするけれど、「演出する」という意味か。なるほどね。
でも、ぼくが今判読した「盛り」のニュアンスと女子高生の使う「盛り」とでは、だいぶ隔たりがあるんだろうな。
さすがに女子高生の友達も、もう久しくいないから(さみしい・・・)生きた使い方に触れる機会もないけれど。

ぼくが高校生のころにも新語をどこからともなく運んでくる、コウノトリみたいなやつがいて
彼の発語する新語はまたたく間に学校中に浸透した。
ぼくはそのころ、「ウチの高校ってすげーぜ!最新流行の言葉をキャッチアップしてんぜ!」と息巻いてそれらの新語を使いまくっていた。

たとえば、

「イカチー」

もちろん、「いかつい」である。元々の意味は「ごつい」「威圧的な」辺りだろう。
その「イカチー」を、ぼくらは「怖い、強い」という意味で使いはじめ、転じて、「ヤバイ」というニュアンスにまで昇華させた。
用例を示す。

「あいつらイカチくね?」
「今日数学の小テストあるじゃん、マジイカチーんだけど」

・・・なんて乏しい表現なんだ。バカかオレら。
バカだけど、カワイイ。そして幾星霜「イカチー」は消えた。
「盛り」もこのまま繁昌し続けるとは思えないから、使い捨てなんでしょうね。
別に、使い捨ての言葉が悪いわけじゃなくて、語彙の増やし方に問題があるだけだ。
(だって、言葉って流動的なものだし、時代ごとのイデオロギーと、年代別バックグラウンドにまるごと内包されているもんだから。)
複数の概念や、グラデーションを描く色とりどりの感情を単一の語彙に委ねてしまう人間は、バカのままだけれど、(たとえば、「うぜぇ」とか「さみぃ」とか)言葉をころころとダイナミックに開発して、語彙を獲得していく女子高生に、ぼくは深い敬意を抱くのである。

これを読んだ女子高生諸氏(いないだろうけど・・)、ぜひ「ことばのつかいかた」レクチャーしてください。